ものか。では、寝たのか。あれほど先に寝《やす》むことを遠慮していた当人が、だまって寝込んでしまうはずもなかろうじゃないか。してみると、また一人おとなしく銭勘定でもはじめたのかな――それにしても変だ。
 という気になって、米友が、のぞき込むのを先にするようにして座敷へ一足入れて見ると、行燈《あんどん》の光が著しく暗くなっているが、消えたのではない。ここまで来ても、お雪ちゃんが何とも言わない、そうして、お雪ちゃんその人の影も見えない。
「おや?」
 米友は忙《せわ》しく座敷の四方を見廻したけれど、お雪ちゃんの姿はいっこう見えないが、その薄暗い行燈の光を通して、燃えくすぶって白い煙をたなびかせている炉辺の彼方《かなた》に人がいる。一見、お雪ちゃんとは全く別な人間が一人、澄まし込んで座を構えている。
「お前《めえ》は誰だ!」
と米友が、目を円くして一喝《いっかつ》しましたが、先方から手ごたえがありません。
 返事はないけれども、人はいるのです、姿は動かないのです。そこで、米友は円くした眼を据えて、じっと、その薄暗い行燈の光と、白くいぶる榾《ほた》の余烟《よえん》とを透して見定めると、蒼白《あおじろ》い面《かお》をしてやつれきった一人の男が、白衣の上に大柄な丹前を羽織って、火の方に向きながらしきりに自分の面を撫でている。最初はただ面を撫でているだけだと思ったが、その指先が長くヒラリヒラリと光るものだから、よく見ると、剃刀《かみそり》を使っているのだということがわかりました。
 つまりこの人は、澄まし込んで、ここで面を剃っているのです。
「お前は誰だ」
と二度《ふたたび》誰何《すいか》した途端に、米友は先方の返事よりも早く、自分の胸に反応が来てしまいました。
「なあんだ、お前《めえ》か。お前はいったい、どこにいたんだ、そうして、いつ、こんなところへ入って来たんだえ」
「雨戸があいているから、そこから入って来たよ」
「どこから?」
「君が出入りをした同じところよ」
「エ、ここからかい、ちっとも知らなかった」
 これだけの問答で、米友は怖るるところなく、ずかずかと炉辺によって来て、その不思議な来客と対角の炉辺に座を占めてしまいました。
 この不思議な来客というのは、米友とは古い顔馴染《かおなじみ》、最近関ヶ原以来の――机竜之助であることに疑いはありません。

         二十
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