竜之助と対角線に坐った宇治山田の米友は、無言でじろりじろりと竜之助の為《な》さんようをながめておりました。
 普通の人ならば文句もあるだろうが、本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》以来、この人をよく知り抜いている米友です。
 天から降ったか、地から湧いたか、現在この座敷の締りは先刻、お雪ちゃんから念を入れての頼みで、水も洩らさぬように締切ってある。入って来たとすれば、戸の隙間《すきま》か、節穴よりするほかには入り道は無いのです。いや一つはある。それは、自分がさいぜん籠を持ち出してから、自身庭へ出て、槍を振っていた間の、あの縁先の雨戸一尺五寸ばかりの間隔だ。しかし、それとても、直ぐその直前で自分が槍を振っていたのだから、取りようによっては、締めきってあるよりも一層の厳しい見張りになっているはずなんだが――そこを潜り抜けて、そうして安然とここへ座を構え込んでしまって、しきりに面を撫でている。
 これは、他人《たじん》ならば米友自身の面目問題なのだが、この人では仕方がない――と米友は観念しているらしい。弥勒寺長屋で一つ釜の飯を食っている時にさえ、出し抜かれたのだから、今宵この場合は、型に心を取られていたおいらだ――油断といえば油断だが、寝首を掻《か》かれたわけではなし、特にこの人は例外である。
 米友も、そういう頭が出来ているから、深くはそのことを気に病まないでいたが、解《げ》し難いのは、その面を撫で廻す指先に光る剃刀と、それから、なおよく見ると、その座右に置いてある櫛箱《くしばこ》です。それもこれも――この男がわざわざ持って来るはずはないと咎《とが》めるまでもなく、常日頃、米友がよく見慣れているお雪ちゃんの持物なのであります。
 いつのまにこの人は、これを持ち出したろう。閃々《せんせん》として波間をくぐる魚鱗のように、町々辻々の要所要所をくぐり抜けて血を吸って帰るこの人の癖は、米友に於てもよく心得たものだが――いかに潜入が得意の人とはいえ、はじめての室内へ入って来て、櫛箱と、剃刀と、それから、なおよく見給え、ちゃんと下剃《したぞり》を濡らすためのお湯まで汲みそろえてある。こういう細かい芸当までが、できるということは、あり得べからざることだ。
 ことに、うしろにふわりと羽織っている丹前だってそうだ。さきほどお雪ちゃんが、蒲団《ふとん》をのべようと言って、戸棚をあけた
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