雪ちゃんとしては、そういうことに触れると、何か現実のいたましいとげ[#「とげ」に傍点]にでも刺されたような気にもなると見え、
「米友さん、そんな話はよしましょうよ、長浜で見た、何か珍しいことをお話しして頂戴な、長浜ってところは、昔太閤様のお城があったところでしょう、今でも人気が大様《おおよう》で、大へんいいのですってね」
「うむ、湖辺へ出ると、なかなか景色はいいな」
「綺麗《きれい》な娘さんがいたでしょう」
「さあ、それはどうだったか」
きれいな娘がいたかどうか、そのことはあんまり米友としては観察して来なかったらしい。
しかし、お雪ちゃんの、綺麗な娘さんがいたでしょうとわざわざ尋ねたのも、べつだん心当りがあって言ったのではなく、京都は美人の本場、長浜も京都に近いところだから、婦人たちも相当に美しいだろうと、こういう淡い想像に過ぎなかったのです。
「大通寺って大きなお寺がありましたでしょう」
「そうさなあ――別においらはお寺を見に行ったわけじゃねえんだが」
「あのお寺の大きな床いっぱいに、狩野山楽の牡丹《ぼたん》に唐獅子が描いてあって、とても素晴しいのですってね、米友さん見なかった?」
「おいらは絵を見に行ったわけじゃねえんだ」
「じゃ、そのうち出直して、一緒にまいりましょうよ、長浜見物に……」
「もう少し待ちな、今は世間が物騒だから」
「どうしてですか」
「どうしてったって」
そこで米友は、今日経験して来たところの要領を、お雪ちゃんに向って物語ったのです。そうすると、お雪ちゃんが眼をまるくして、
「まあ――よく無事に来られましたねえ」
容易ならぬ危難を突破して来た米友の冒険をはじめて知りました。
そうしてみると、新婚当夜ほどの新しい気分を与えてくれる今晩の調度も、相当の犠牲なしには得られなかった恩恵であることが一層深く感ぜられ、お雪ちゃんは幾度《いくたび》か米友の労をねぎらって、やがてお芋の皮をむくことが終ると、お茶をいれ、お茶菓子を出して、二人で飲みはじめました。
十九
二人がお茶を飲みはじめていると、急に自在の新鍋《あらなべ》が沸騰しました。
これは、あんまり二人が仲よく茶を飲んでいるものですから、新鍋が嫉妬《やけ》を起して沸騰をはじめたというわけではありません。
もう煮え加減が、ちょうど沸騰すべき時刻に達したから沸騰したま
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