待っていらっしゃい、わたしが叩きますから」
と言って、お銀様は岩壁の一方に立つと、しなやかな手で、その岩壁の上をはたはたと打ちはじめました。
 あんな手荒なことをして――でも、しなやかな手は折れも砕けもしないで、岩壁の一方が割れました。忽《たちま》ちそこが開けて見ると、第二の岩戸があって、注連《しめ》が張りめぐらしてある。その中は土の牢、岩の獄屋《ひとや》になっているのがありありとわかる。
「お寝《やす》みですか」
 その奥に人がいるに相違ない。しかもその主こそ、お銀様がかねて承知の人であるらしい。
 その時、その暗い中から、不意に短笛の音が流れ出しました。
「今、わたしが明りをつけて、よく見えるようにして上げます」
と言って、お銀様は、いつのまに用意したのか、懐中から小田原提灯を取り出すと、早くも火がうつっていました。
 もとより小田原提灯の火ですから、この広大陰暗な洞窟の全部が照し出されようはずはありません。それでも、注連《しめ》を張った岩窟の中までは朧《おぼ》ろに光が届いて、その奥の方に、かすかに白い衣服がうごいていることがわかる。それはたしかに人間には相違ないが、まだ、そのえたい[#「えたい」に傍点]はわからないのです。男だか女だか、それはもとよりわからないが、幽明いずれの人だか分明ではないが、その中から起る短笛――つまり尺八です――の音だけは明々喨々《めいめいりょうりょう》として、お雪ちゃんの耳まで響き来《きた》るのであります。
「ああ、鈴慕《れいぼ》――」
 やっぱり鈴慕でした。
「お嬢様、この中で鈴慕の声が聞えます、早くこの中へ入ってみましょうよ」
「危ない!」
と、お銀様が遮《さえぎ》るのを、お雪ちゃんはかえってせき込んで、
「お嬢様、もう少し、あの提灯の火を明るくしていただけませんでしょうか、笛の音だけはハッキリと聞えますけれど、中においでになるお人がどなたかわかりません」
「もう、これより明るくはなりません」
「そんなことをおっしゃらず、もう少し明るくして……光が届かなければ、わたしはあの牢へ近寄ってみましょう、できますことならば、あの牢の中に入って見てもよいと思います」
「足もとをよくごらんになっての上でね――」
と言われて、お雪ちゃんが足もとを見直すと、全身の血が一時に冷たくなりました。
 同じ岩壁の中の遠近と見たのは、実はウソでした。あの牢屋のあるところと、自分たちの立っているところの間には、絶対的の岩角が相聳《あいそび》え立っていることにはじめて気がついたのです。
 普通、山に於ての隔たりと言っても、谷と谷とを予想するのですが、つまり同じ日本中、同じ地上である限りは、山河渓谷の隔たりがあるとはいえ、河には橋、谷には桟《かけはし》を以てすれば、要するに地続きの実が現われるものですけれども、ここの懸崖というものはちょうど、地球と月世界との間の絶対と同じこと、下を見れば見るほど底の知れない断岸《きりぎし》――
 そうして、その裂け目の左右を見ると、先刻見た赤い空気の湖面がいっそう面積を拡大して、山脚はいよいよ押迫っている。山も、湖面も、今は全く蛍の光そのもの同様な蒼白《そうはく》なる光線が流れ渡っているのであります。
「あ、月が上って来ましたね、もう提灯は要りません」
 お銀様がこう言って、フッと蝋燭《ろうそく》を吹き消した途端に、さきに湖面山岸いっぱいに充ち満ちていた蛍のような光が、競ってこの岩窟のすべての中に流れ込みました。
 そうすると、対岸の牢屋の中が、はっきりと見得られるようになりました。その中に心憎くも澄ましきって、座を構えてしきりに短笛を弄《ろう》している白衣《びゃくえ》の人の姿、それが、また極めてハッキリと浮び出て来ました。
 それは白骨温泉以来の鈴慕の主です。

         十一

 その時に竜之助は、短笛を持ったまま、気軽にずっとこちらへ出て来ました。
 ずんずんこちらへ歩いて来て、お雪ちゃんと当面の巌の直ぐ突角《とっかく》のところまで来ると、そこにずっと結びめぐらしてあった丸太の手すりに無雑作《むぞうさ》に腰をかけてしまったものですから、お雪ちゃんが、
「お危のうございますよ」
と言いましたが、竜之助は微笑しただけです。お雪ちゃんはそれから立て続けに、
「先生、まあ、あなたは、どうしてこんなところに……」
と言ってせき込みましたが、竜之助は、
「お雪ちゃん、お前どうしていたの」
「先生、あなたこそ、どうしてそんなところにいらっしゃるのです、お一人ですか、こちらへいらっしゃい」
「は、は、は、とうとうこんなところへ閉じこめられてしまったよ」
「まあ、誰があなたを、そんな岩の牢の中へ入れてしまいましたの」
「誰でもない、そ、そこにいる人がさ」
と言ったその上眼《うわめ》つかいで、お雪ちゃんの記憶が、お銀様の方へ甦《よみがえ》って来ました。
「お嬢様、あなたが先生を、こんな牢の中へお入れ申してしまったのですか」
「でも、仕方がありませんもの」
「仕方がないとおっしゃるのは?」
「胆吹の山の大蛇《おろち》は、こうでもして封じて置かなければ、世間がたまりません」
「まあ、残酷な」
 お雪ちゃんが、一切の恐怖を忘れてムキになりましたが、問題の当人はいっこう平気で、
「まあ、いいさ、こうして窮命させられているのはやむを得ない自業自得というものだ。でも、二人で、よく見舞に来てくれました、ゆっくり昔話でもしようではないか」
 懸崖絶壁に腰をかけながら、涼み台に出て世間話でも持ちかけるような気分で、いやになれなれしいところへ、お銀様がまた妙に砕けたしなをして、
「どうです、悪女大姉のことは。悪女大姉に未練はございませんか」
「は、は、もう、何とも思っちゃいないね」
「お絹さんはどうです」
「は、は、は」
「山の娘のお徳さんとやらの、こってりした情味は忘れられますまいね」
「は、は、は」
「高尾山|蛇滝《じゃたき》で馴染《なじ》んだお若さんというのはどうです」
「は、は、は」
「伊勢の国の鈴鹿峠の下の関の宿《しゅく》から、お安くない御縁を結んだ、あのお豊さんとやらの心意気だけは、あなただって恩に着ないわけにはゆきますまい」
「は、は、は」
「あなたは、人妻を犯しました、人の後家さんを取りました、婬婦を弄《もてあそ》ぶこともしましたし、処女と戯れることもしましたねえ、わたしの知っているだけでも……そのうち、誰がいちばんお気に召しましたかねえ」
「は、は、は」
「甲州の八幡村の小泉の家で、わたしに逆綴《ぎゃくとじ》の帳面の初筆《しょふで》をつけさせました、あの時の水車小屋の娘もかわいそうでしたね」
「は、は、は」
「その帳面はあれからどうなりました」
「は、は、は」
「水に流されてしまってそれっきりでしたか。帳面は水に流されても、あなたの悪い行いは流れてしまいは致しますまい」
「は、は、は」
「あれから後、何人の人を殺しましたか」
「は、は、は」
「染井の化物屋敷の時のことをお忘れなさりはしますまいね、弁信さんとわたしと三人で、あの、うんきの中に、土蔵の二階で合奏をしたことがありましたねえ」
「は、は、は」
「白骨の温泉こそお楽しみでしたねえ、誰も知らない天地の間で、こんな憎らしい小娘と一緒に……」
「は、は、は」
「あなたは、この小娘を愛していたのですか、愛してはいなかったのですか」
「は、は、は」
「この雪という小娘も、面《かお》に似合わない大胆者でしたね、姉さんの男を横取りしてしまって、そうして……」
「あら――」
 こんどはお雪ちゃんが、たまりかねて叫びました。
「は、は、は」
 そのあとで、竜之助の響。お銀様はお雪ちゃんに取合わずに、竜之助の方に向いてつづけました。
「白《しら》を切っているけれども、わたしはもう疾《と》うに睨《にら》んでいますよ、二人の仲は、あの月見寺の一間で刀を拭っている時から出来ていたんですとも……そうして、このお雪ちゃんという小娘を妊娠させてしまったものだから、土地にいたたまれないで、湯治を言い立てて白骨温泉なんぞと洒落《しゃれ》こんだのが憎らしい」
「あら、まあ」
 お雪ちゃんが、また眼をみはって、抗議を申し込もうとする途端に竜之助がまた、
「は、は、は」
と笑いました。そこで、お銀様は、やっぱりお雪ちゃんにはとり合わずに、竜之助の方にまともに向って、
「そうして、白骨にいる間に、あなたはあのイヤなおばさんという女をどうしました」
「は、は、は」
「かわいそうなのは、浅吉という男妾《おとこめかけ》と、それからですね、もう一人……」
「は、は、は」
「それを言うと、またここにいる小娘がムキになることでしょうが、浅吉という男妾ばかりがかわいそうなのではありませんでした、まだ、たしかに一人、闇から闇へ送られたかわいそうなのがあったはずです」
「何をおっしゃるのです、それは、誰のことでございますか」
 果してお雪ちゃんが躍起となりました。お雪ちゃんの躍起ぶりが、あまりに真剣であったせいか、今度は竜之助も、は、は、は、という例の軽薄極まる冷笑を浮べませんでした。そこで、お銀様が今度は、お雪ちゃんの方へ向き直って、
「誰だか、わたしは知りませんが、あの時に、たしかに闇から闇へ送られた、かわいそうな人の子が、たった一人はあったはずです」
「それを承りましょう、それを――ほかのこととは違います」
 なぜか、お雪ちゃんが、お銀様の喧嘩を買うような気勢にまでいきみ立ったのが、意外でありました。
「聞きたいとおっしゃるならば、言ってみましょう、それを誰よりも早く感づいたのは、あのイヤなおばさんという人でした。そこは年功ですから、いやに処女ぶっている乙女の乳首に眼をつけてしまったんでしょうね、温泉のお湯の中で……ですけれども、それが飛騨の高山へ来る時分には、すっかり下りてしまっていました。男の子であったか、女の子であったか、そのことは存じませんが、だいそれた自分の手で、虫も殺さない処女ぶった娘さんが、嬰児殺《えいじごろ》しをやりました。それは、人を殺すことは茶飯を食べるように心得ている人のお仕込みだから、子供を一人、闇から闇に送るなんぞは、言うに足りない仕事でしょうが、それでも親は親、子は子です、どこぞにいる人殺しの名人でも、まだ我が子を手にかけて殺したということは承りません」
「まあ、お嬢様、あなたのお言葉は怖ろしい毒を持っておいでなさいます――ほんとうに驚くべき邪推でございます、いつ、わたしが、そんなことを……」
「お雪さん、いつまたわたしが、あなたがそんな悪いことをしたと申しました、今でも白骨へ行ってごらんなさい、あそこで死んだ浅吉さんという男妾の人の石の墓じるしがございましょう、その傍に、心ばかりの小さな石塔が据えてあります、いったい、あれは誰のですか」
「あんまりだ、あんまりだ」
 お雪ちゃんは、ついに面《かお》を蔽《おお》うて泣き伏してしまいました。
「は、は、は」
 その時また、冷淡極まる笑いが竜之助の面に浮びました。

         十二

 同時に、湖面の一点に、ざんぶと音がして、そのあたり一面に水煙が立ったかと見ると、漣々《れんれん》として、そこに波紋が、韓紅《からくれない》になってゆく異様の現象が起りました。
 湖面も、湖を立てこめた数千丈の断崖も、前に言った通りの蛍のように蒼白《そうはく》の色に覆われていたのが、今、不意にざんぶと音がして、その水煙から輪になって行く波紋のすべて鮮紅色になってゆく現象を、さすがお銀様が怪しまずにはおられません。
「あれは、どうしたのです」
 意地悪いお雪ちゃんいじめを抛擲《ほうてき》して、そうして疑問をかけたのを、竜之助がうなずいて、
「あれだ、ああして毎日、いいかげんの時に、人が飛び込むのだ」
「飛び込んでどうするのです」
「どうするって、つまり身投げだよ。見ていると、一刻《ひととき》の間に十も二十も飛びこむことがある、そら見な、あの通り真紅《まっか》になっている中に、真白いものがふわりと浮いているだろう、女の臀
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