ませんが」
「そういうわけでなければ、わたしと一緒に行って下さってもいいでしょう、あなたはお山に慣れていらっしゃるけれども、わたしはそうはゆきません」
「いいえ、わたしだって……」
「あんなことを言っている、白馬ヶ岳から高山の花を摘《つ》んだり、雪の渓《たに》を越えたりして、越中の剣岳《つるぎだけ》や、あの盛んな堂々めぐりを、いい気になってながめて来たくせに」
「それはそうかも知れませんが」
「さあ、早くなさい、風もすっかりやみましたよ」
「それではおともをいたしましょう」
「わたしと同じことに、ここにこうして白い行衣《ぎょうえ》も、白い手甲脚絆も、金剛杖も、あなたの分をすっかり取揃えて持って来ましたから、これをお召しなさい」
 なるほど、誂《あつら》えて対《つい》にこしらえさせたと思われる装束が、早くもお雪ちゃんの枕許にちゃんと並んで催促している、こうなっては退引《のっぴき》がならない。
 圧倒的に、いつのまにか、お銀様と同じこしらえをさせられてしまって、いざとばかり、戸外へ出ますと、星はらんかんとして輝き、胆吹の山が真黒に蟠《わだかま》っている麓は、濛々《もうもう》たる霧で海のように一杯になっているのを見ました。お銀様は無二無三にその霧の中へと没入して行くので、お雪ちゃんも同様の行跡を猶予することを許されません。
 雲霧晦冥《うんむかいめい》の中に没入して行くお銀様、それに追従せしめられて行くお雪ちゃん、ある時はお銀様の姿をはっきりと霧の中に浮ばせてみとめ、ある時は、どこにどう彷徨《さまよ》うか見失って呆然《ぼうぜん》として立つと、不思議にお銀様が霧に隠れる時は、きっとすずしい鈴の音が聞えます。
 ふと気がつくと自分は、お銀様のあとを追うているのではない、ただ清らかな鈴の音を追うて、雲霧の中を突き進ませられているのだと感じた途端に、また、ありありと、お銀様の姿が先に立って、すっきりと歩み行くものですから、その鈴の音を聞いている時は、清水の湧くような爽《さわ》やかな気分に打たれますけれども、お銀様の姿のひらめくのを見ると、ゾッと、身の毛が立つような思いをします。かくて、見えつ隠れつして行くうちに、ついに人間としてのお銀様の姿が次第次第に竜蛇《りゅうだ》に変って行くのではないかと疑われ出してきました。
 今や、憎らしいほど真黒く蟠《わだかま》っていた、山容雄偉なる胆吹山の形も全く見えなくなりました。見えるものは、雲と、霧と、その雲と霧の中を清らかな鈴の音と、それから、ひらりひらり閃《ひら》めく竜蛇の面影――
 自分は山登りは慣れないと言ったお銀様の身の軽いこと――そうして、絶えずそれに引摺《ひきず》られて行く気分のわたし、それでも山へ登る気持はしないで、濡れない海の中を深く潜り入るような感じが不思議です。
「お雪さん――疲れましたか」
「いいえ」
「早くいらっしゃい、あなたに見せて上げるものがありますから」
「何でございますか」
「足もとを見てごらんなさい、いろいろな花が咲いておりますよ」
「まあ――」
 なるほど、足もとを見ると――あるにはあるがお雪ちゃんが悸《ぎょ》っとしました。
 点々として、到るところに、花といえば花が咲いていることは間違いはないが、その花のまた何という毒々しい色、ドス黒くて、いやに底光りのする、血といえばいえるが、しかも人間の温かい血という感じさえない、魚類の冷たい悪血《あくち》――そうして葉の捲き方から節根《ふしね》までがいちいちひねくれている。
「一つそれを摘んでごらんなさい」
「はい」
「それが胆吹の毒草というのですよ」
「毒草でございますか、薬草ではございませんか」
「薬草も毒草も同じことなんです、薬草も変じて毒草になるし、毒草もいつか薬草になることがあります、一つ摘んで香りをかいでごらんなさい」
「はい」
「遠慮には及びませんよ」
「でも……」
 お雪ちゃんは、これを摘む気にはなれないのです。見てさえ胸の悪くなる、この魚血のようなドス黒い草の花――胆吹の山は薬草で満ちていると話には聞いているが、これはみんな毒草! 良薬は口に苦《にが》しということですから、見て身ぶるいするほどいやな草なればこそ、薬としての効能が強いものか。よし、それはそれとしても自分は手をのべて、この花を摘む気にはなれない。
 たといそれは毒があろうとも、もっと美しい花を摘みたい――お雪ちゃんが、そう思ってためらっていると、意地悪そうにお銀様が笑い、
「そうでしょう、あなたは、そんなのを摘むのはおいやでしょう、いつぞや白馬ヶ岳のお花畑で、胸に余るほど摘み取って誰かに見せたような、ほんとに美しい色の花は、ここにはございません、ですから、あなたは、それを摘むのがおいやなんでしょう」
「そういうわけではありませんけれども……」
「わたしはまた、こんな毒々しい花が好きなんです」
と言って、お銀様は、いきなり前かがみになって、その花の一茎を手早く摘み取って、そうして、それを無遠慮にお雪ちゃんの鼻先に持って来て、
「香いをかいでごらんなさい」
「あっ!」
 ああ、いやな香い――お雪ちゃんは、むせ返って、ほとんど昏倒しようとしました。
「そんなにいやがるものじゃありません、それは白馬ヶ岳の雪に磨かれた深山薄雪《みやまうすゆき》や、梅鉢草《うめばちそう》とは違います、ここのは、眼の碧《あお》い、鬚《ひげ》の赤い異国の人が持って来て、人の生血《いきち》を飲みながら植えて行った薬草なんですもの」
「もう御免下さい」
「あなたには嫌われてしまいましたねえ。それでも、わたしはなんとなし、このあくどい香いが好きなんです」
 お銀様は、その一茎の花を今度は自分の鼻頭《はなづら》へあてがって、菫《すみれ》の香《か》に酔うが如く、貪《むさぼ》り嗅ぐのでありました。
 お雪ちゃんはめまいがしてきました。
「お雪さん、しっかりしなくちゃいけません、この花の香いぐらいが何です――それそれ、この山から立ちのぼる悪気の香いは、日本の武神|日本武尊《やまとたけるのみこと》のお命をさえ縮めるほどの怖ろしい毒があるのです」
「え!」
「今日はそれを、あなたに見せて上げたい、いや、それで、あなたを迷わせて上げたいと思って連れて来たのです。大蛇《おろち》がいるのですよ、現在このお山に。その昔、日本武尊の御命をちぢめ奉った大蛇のことを、あなたも本を読むことがお好きだから、歴史でよく御存じのはずです、山神《さんじん》化して大蛇となり道に当る、日本武尊、蛇を跨《また》いでなお行く、時に山神、雲を起し氷を降らし、とあります。それは太古の歴史ですけれども、わたしも現在、この山におろち[#「おろち」に傍点]を一つ封じ込んで置くのです、それをあなたに見せて上げましょう」
「もう、たくさんでございます、御免下さい」
「ホ、ホ、ホ、まだ大蛇が出て来はしません。出て参っても、あなたを呑もうともしません、呑ませもしませんから御安心なさい。さあ、もう少し登りましょう、まだ、なかなか夜は明けません」
 こう言ってお銀様は、またも雲霧の中に突き進んでしまうと、以前の如く、玲々《れいれい》として爽やかな鈴の音が聞えはじめました。

         十

 暫くして、一つの巨大なる石門《せきもん》のところに来ました。
「これが、さっきの話の、胆吹の弥三郎の千人窟ですよ」
 見上げるばかりの石柱が二つ、夫婦岩《めおといわ》のような形に聳《そび》えていて、その間が船形のうつろになっているその間へ、お銀様がお雪ちゃんを引摺《ひきず》り込みました。
 引摺り込んだというのは穏かでないけれども、お雪ちゃんは、そもそもこの人との道づれに全く気が進まないでいるところを、圧倒的に歩かせられたり、毒草を鼻頭にこすりつけられたりして、それでも、どうも、この人のあとを追うことから免れられない引力を感じているところへ、今はもう、この先が地獄になるか、牢屋になるか、真暗闇の石門の前へ来て、ここへはいれと身を以て導かれる。それを拒む力もなく、いやという言葉さえ出ないで、ぐんぐんと引摺られて行くのは、お銀様の手ごめにかかってそうされないでも、事実は、それ以上の力で引摺られて行くのです。
 お雪ちゃんは、ついにこの石門の中へと引摺り込まれてしまいました。
「御安心なさい、直ぐにまた明るくなりますよ、そらごらんなさい」
 石門の中の真暗な洞窟を二町ばかり歩むと、左手の崖がカッと開けて、そこから、真赤な日の光がさしました。日の光であろうと思うけれども、それはあまりにあか過ぎる。遠く彼方《かなた》に広大なる池がある、池というよりも湖です。そうしてその広さ、その周囲、それはなんとなく琵琶湖に似ているけれども、その湖面を見るといよいよ真赤であって、湖辺の山に、例えば比良であるとか、比叡であるとか、見立てらるべき山々が、実景に見るそれよりも遥かに嶮山絶壁をなしている上に、鮮紅のヴェールをかけたものであるように思われてならぬ。
 そうして見ると、決して日の光を一帯にかぶっているわけではない、日の光とは全く違った、たとえば蛍の光を鮮紅にしたように、光は光に相違ないが、それは熱のない光である。つまり、月の光に血が交ったらこんな色になるかもしれないと、お雪ちゃんは全くいやな思いで、この湖面を左右に見ながら、こうなってもなお、お銀様のあとを追わなければならない自分の無力のほどを、自覚する余裕もありません。
「ここが弥三郎の百間廊下ですよ、千人座敷へ行くまでには、また暗くなりますから、御用心なさい」
 果して、この天然の大廊下を少し行くと、また真暗闇になってしまいました。
「足もとにお気をつけなさい、水があります、水が流れています、妙にベトベトした水ですけれど、血ではありませんから、怖がるには及びません」
 ハッとお雪ちゃんは、その水たまりの中に爪先を踏み込むと、なるほどなまぬるい。こんな奥まった岩窟の間から湧き出す清水だから、こんなに生温《なまぬる》いはずはありようはない。血ではないとあらかじめ予告をされたから、かえってこれは、生血《いきち》がどろどろ流れているのではないかと、お雪ちゃんが二の足を踏むと、お銀様から、
「そらごらんなさい。向うの岩に大小二つの滝がかかっておりましょう、あの大きいのは姉川《あねがわ》、小さいのが妹川《いもがわ》の源になるのです」
と言われて見ると、なるほど、広大に開けた岩窟の中の往年の壁面に、大小二条の滝がかかっている。飛騨の平湯の大滝だの、白山白水の滝だのを、うつつに見聞きしたお雪ちゃんにとっては、その滝が、必ずしも珍しい滝だとは思いませんけれども、周囲の異様なる景色には打たれざるを得ないのです。
「胆吹の弥三郎よりも、もっと昔、この洞窟《ほらあな》の中に山賊が棲《す》んでいたのです、大江山を追われた酒呑童子《しゅてんどうじ》の一族が、ここを巣にしていたのです。その時に、公家や民家から奪い取って来た美しい女たちを、山賊が競《きそ》って弄《もてあそ》びました。そうして、この滝壺で汚物を洗わせたということです。その山賊を征伐するために頼光父子が、渡辺の綱や金時を連れて、二万余騎で攻めかけて来たということですから、山賊の方も少々の数ではなかったんでしょう、ですから、このくらい大きな洞窟が無ければなりません。さあ、もう少し奥へ行ってみましょう」
 もう少し奥へと言ってのぞき込んだお銀様のうしろ姿を、お雪ちゃんは怖ろしいと思いました。怖ろしいの、こわ[#「こわ」に傍点]いのというのは、もう通り越しているはずなのですが、その時はもう、意地も我慢もなくって、
「お嬢様、もう、わたしは、ここでたくさんです。本来わたしは、あなたとお山登りをするつもりで出てまいりました、こんな、洞窟入りをするお約束じゃなかったはずでございます」
 一生懸命にこれだけのことを言いますと、後ろを振向かないお銀様は冷然として、
「いいえ――お山登りなんぞは、いつでもできます、あなたとわたし二人は、ほかに見るものと見せたいものがあればこそでしょう、暫く
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