ろしうございます」
「この松も、いい松ではありませんか」
「全く、見事な松でございます」
「あなたは、ここから見た琵琶湖附近の名所名所を御存じですか」
「いいえ――まだ、ずいぶん昔からの名所でございますそうですけれども、調べてみる暇もございません、教えて下さる方もございません」
「二人で少し調べてみましょうか」
「はい」
「お仕事が忙しいの?」
「いいえ――どうでもよろしい仕事なのでございます」
「では、もう少しこちらへいらっしゃいな」
 少しでも多くの視野を展《ひろ》げられるように、お銀様は、お雪ちゃんを自分の身に近く招き寄せましたから、お雪ちゃんはそのまま縁先ににじり寄ると、
「ごらんなさい、あの比良ヶ岳から南へ、比叡山の四明ヶ岳――その下が坂下《さかもと》、唐崎、三井寺――七景は雲に隠れて三井の鐘と言いますが、ここではその鐘も聞えません。唐崎の松は花より朧《おぼ》ろにてとありますが、その松もここでは朧ろにさえ見えはしません」
「けれどもお嬢様、そのつもりで、こうして眺めておりますと、三井寺の鐘が耳許《みみもと》に響き、唐崎の松が墨絵のように浮いて出る気持が致すではございませんか」
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