の伏見より江州を経て勢州に至り、尾張、三河、遠江《とおとうみ》、そこの狩宿に十王堂を建て、十王尊と奪衣婆《だつえば》を納め、駿河《するが》の随所に作物を止めて、興津《おきつ》から万沢を経て身延に詣でて見ると、そこは早や故郷の甲州である。身延の対岸の帯金村に四十五日を送った後に、故郷の丸畑へ帰ったのが寛政十二年十二月末で、上人の齢《よわい》はその時八十三歳であった。
 故郷丸畑の永寿庵を修理して、その本尊の五智如来をきざみ、それが終るや、四国堂の建立《こんりゅう》と、八十八体仏の彫像、その大願を成就したが、それで故郷に大安住の終りを求めたわけではない。享和二年の末つ方、またも故郷を立ち出でて、再び故郷へは帰らざる旅に出た。
 その後、信濃路を経て、越後の国に入る。信心深いこの国の人々は、上人の足を二カ年半も止めさせたということで、後に特志の人がその間にきざんだ仏像を見つけたものだけでも百五十体、なお幾多の隠れたるものが想像される。人間の齢《よわい》の頂上を祝《ことほ》ぐ八十八も旅のうちに過ぎ去って、その後の行蹟はわからない。わからないけれども、その年齢で、越後から清水越《しみずご》えか、
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