最も好んで食べたのは蕎麦粉《そばこ》であったという。そして背には負仏《おいぼとけ》を納めた箱一つ、これは陸奥《みちのく》の端より佐渡ヶ島、特に佐渡ヶ島には法縁が豊かであったと見えて、幾多の堂宮、仏体、巻軸が残っている。佐渡を離れる時に、
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四とせ経てけふ立ちそむる佐渡島を
いつきて見るやのりのともし火
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という一首を、九品仏《くほんぶつ》の堂上の額に題して去った。
東海、東山、西国三十三番、大阪より播州に進み、作州に入って津山城下より下津井に下って船により、四国遍路を済ませて、伊予の大洲《おおす》から九州の佐賀の関に上陸、豊後路《ぶんごじ》を日向へ向い、そこの国分寺に伽藍《がらん》を建て、五智如来をきざんで勧請《かんじょう》し、それより大隅、薩摩、肥後、肥前と経巡《へめぐ》ってまたも日向の国分寺に戻り、それよりまた豊前、豊後を経て九州を離れて赤間ヶ関に上り、それからまた山陰、山陽の遍路がはじまり、再び四国八十八カ所、三百里の里程がこの旅僧を待っている。それが終ると、瀬戸内海を縫うてまた浪速《なにわ》へと志し、安治川《あじかわ》を上って京
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