お》から胸いっぱい忽《たちま》ち泥だらけとなって、七顛八倒《しちてんばっとう》する有様は見られたものではありません。
見られたものでないからといって、この際、通りかかった人は、それを見過すわけにはゆかないでしょう。知った面であろうとなかろうと、こうして田の中で七顛八倒している人を見れば、そのまま見過しはできない道理ですけれども、あいにく、その時は人通りがありませんでした。
人通りがあってもなくても、知る人は知る、ここにひとり七顛八倒して、お汁粉の化け物のようになって、ひとり泥試合を演じつつある御当人とては、当時、下谷の長者町で有名な、十八文の道庵先生その人であります。
「ああ深《ふけ》え! こいつはたまらねえ」
一方の足を抜けば、また一方の足――足が抜けたかと思うと、諸手《もろて》がそれよりも深くハマリ込んでいる。
かわいそうにわが道庵先生は、ぬきさしのならない深田地獄へ没入の身となりました。
そもそも道庵先生たるべき身が、どうしてこうも無残な運命にでくわしたかと言えば、それにはそれで幾分同情すべき理由もあるのでした。
あの芝居の楽屋で、この長持の中へ酔倒して、その上へ突然
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