吹山の形も全く見えなくなりました。見えるものは、雲と、霧と、その雲と霧の中を清らかな鈴の音と、それから、ひらりひらり閃《ひら》めく竜蛇の面影――
 自分は山登りは慣れないと言ったお銀様の身の軽いこと――そうして、絶えずそれに引摺《ひきず》られて行く気分のわたし、それでも山へ登る気持はしないで、濡れない海の中を深く潜り入るような感じが不思議です。
「お雪さん――疲れましたか」
「いいえ」
「早くいらっしゃい、あなたに見せて上げるものがありますから」
「何でございますか」
「足もとを見てごらんなさい、いろいろな花が咲いておりますよ」
「まあ――」
 なるほど、足もとを見ると――あるにはあるがお雪ちゃんが悸《ぎょ》っとしました。
 点々として、到るところに、花といえば花が咲いていることは間違いはないが、その花のまた何という毒々しい色、ドス黒くて、いやに底光りのする、血といえばいえるが、しかも人間の温かい血という感じさえない、魚類の冷たい悪血《あくち》――そうして葉の捲き方から節根《ふしね》までがいちいちひねくれている。
「一つそれを摘んでごらんなさい」
「はい」
「それが胆吹の毒草というのですよ」
「毒草でございますか、薬草ではございませんか」
「薬草も毒草も同じことなんです、薬草も変じて毒草になるし、毒草もいつか薬草になることがあります、一つ摘んで香りをかいでごらんなさい」
「はい」
「遠慮には及びませんよ」
「でも……」
 お雪ちゃんは、これを摘む気にはなれないのです。見てさえ胸の悪くなる、この魚血のようなドス黒い草の花――胆吹の山は薬草で満ちていると話には聞いているが、これはみんな毒草! 良薬は口に苦《にが》しということですから、見て身ぶるいするほどいやな草なればこそ、薬としての効能が強いものか。よし、それはそれとしても自分は手をのべて、この花を摘む気にはなれない。
 たといそれは毒があろうとも、もっと美しい花を摘みたい――お雪ちゃんが、そう思ってためらっていると、意地悪そうにお銀様が笑い、
「そうでしょう、あなたは、そんなのを摘むのはおいやでしょう、いつぞや白馬ヶ岳のお花畑で、胸に余るほど摘み取って誰かに見せたような、ほんとに美しい色の花は、ここにはございません、ですから、あなたは、それを摘むのがおいやなんでしょう」
「そういうわけではありませんけれども……」
「わたしはまた、こんな毒々しい花が好きなんです」
と言って、お銀様は、いきなり前かがみになって、その花の一茎を手早く摘み取って、そうして、それを無遠慮にお雪ちゃんの鼻先に持って来て、
「香いをかいでごらんなさい」
「あっ!」
 ああ、いやな香い――お雪ちゃんは、むせ返って、ほとんど昏倒しようとしました。
「そんなにいやがるものじゃありません、それは白馬ヶ岳の雪に磨かれた深山薄雪《みやまうすゆき》や、梅鉢草《うめばちそう》とは違います、ここのは、眼の碧《あお》い、鬚《ひげ》の赤い異国の人が持って来て、人の生血《いきち》を飲みながら植えて行った薬草なんですもの」
「もう御免下さい」
「あなたには嫌われてしまいましたねえ。それでも、わたしはなんとなし、このあくどい香いが好きなんです」
 お銀様は、その一茎の花を今度は自分の鼻頭《はなづら》へあてがって、菫《すみれ》の香《か》に酔うが如く、貪《むさぼ》り嗅ぐのでありました。
 お雪ちゃんはめまいがしてきました。
「お雪さん、しっかりしなくちゃいけません、この花の香いぐらいが何です――それそれ、この山から立ちのぼる悪気の香いは、日本の武神|日本武尊《やまとたけるのみこと》のお命をさえ縮めるほどの怖ろしい毒があるのです」
「え!」
「今日はそれを、あなたに見せて上げたい、いや、それで、あなたを迷わせて上げたいと思って連れて来たのです。大蛇《おろち》がいるのですよ、現在このお山に。その昔、日本武尊の御命をちぢめ奉った大蛇のことを、あなたも本を読むことがお好きだから、歴史でよく御存じのはずです、山神《さんじん》化して大蛇となり道に当る、日本武尊、蛇を跨《また》いでなお行く、時に山神、雲を起し氷を降らし、とあります。それは太古の歴史ですけれども、わたしも現在、この山におろち[#「おろち」に傍点]を一つ封じ込んで置くのです、それをあなたに見せて上げましょう」
「もう、たくさんでございます、御免下さい」
「ホ、ホ、ホ、まだ大蛇が出て来はしません。出て参っても、あなたを呑もうともしません、呑ませもしませんから御安心なさい。さあ、もう少し登りましょう、まだ、なかなか夜は明けません」
 こう言ってお銀様は、またも雲霧の中に突き進んでしまうと、以前の如く、玲々《れいれい》として爽やかな鈴の音が聞えはじめました。

         十

 暫くして
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