、一つの巨大なる石門《せきもん》のところに来ました。
「これが、さっきの話の、胆吹の弥三郎の千人窟ですよ」
見上げるばかりの石柱が二つ、夫婦岩《めおといわ》のような形に聳《そび》えていて、その間が船形のうつろになっているその間へ、お銀様がお雪ちゃんを引摺《ひきず》り込みました。
引摺り込んだというのは穏かでないけれども、お雪ちゃんは、そもそもこの人との道づれに全く気が進まないでいるところを、圧倒的に歩かせられたり、毒草を鼻頭にこすりつけられたりして、それでも、どうも、この人のあとを追うことから免れられない引力を感じているところへ、今はもう、この先が地獄になるか、牢屋になるか、真暗闇の石門の前へ来て、ここへはいれと身を以て導かれる。それを拒む力もなく、いやという言葉さえ出ないで、ぐんぐんと引摺られて行くのは、お銀様の手ごめにかかってそうされないでも、事実は、それ以上の力で引摺られて行くのです。
お雪ちゃんは、ついにこの石門の中へと引摺り込まれてしまいました。
「御安心なさい、直ぐにまた明るくなりますよ、そらごらんなさい」
石門の中の真暗な洞窟を二町ばかり歩むと、左手の崖がカッと開けて、そこから、真赤な日の光がさしました。日の光であろうと思うけれども、それはあまりにあか過ぎる。遠く彼方《かなた》に広大なる池がある、池というよりも湖です。そうしてその広さ、その周囲、それはなんとなく琵琶湖に似ているけれども、その湖面を見るといよいよ真赤であって、湖辺の山に、例えば比良であるとか、比叡であるとか、見立てらるべき山々が、実景に見るそれよりも遥かに嶮山絶壁をなしている上に、鮮紅のヴェールをかけたものであるように思われてならぬ。
そうして見ると、決して日の光を一帯にかぶっているわけではない、日の光とは全く違った、たとえば蛍の光を鮮紅にしたように、光は光に相違ないが、それは熱のない光である。つまり、月の光に血が交ったらこんな色になるかもしれないと、お雪ちゃんは全くいやな思いで、この湖面を左右に見ながら、こうなってもなお、お銀様のあとを追わなければならない自分の無力のほどを、自覚する余裕もありません。
「ここが弥三郎の百間廊下ですよ、千人座敷へ行くまでには、また暗くなりますから、御用心なさい」
果して、この天然の大廊下を少し行くと、また真暗闇になってしまいました。
「足もとにお気をつけなさい、水があります、水が流れています、妙にベトベトした水ですけれど、血ではありませんから、怖がるには及びません」
ハッとお雪ちゃんは、その水たまりの中に爪先を踏み込むと、なるほどなまぬるい。こんな奥まった岩窟の間から湧き出す清水だから、こんなに生温《なまぬる》いはずはありようはない。血ではないとあらかじめ予告をされたから、かえってこれは、生血《いきち》がどろどろ流れているのではないかと、お雪ちゃんが二の足を踏むと、お銀様から、
「そらごらんなさい。向うの岩に大小二つの滝がかかっておりましょう、あの大きいのは姉川《あねがわ》、小さいのが妹川《いもがわ》の源になるのです」
と言われて見ると、なるほど、広大に開けた岩窟の中の往年の壁面に、大小二条の滝がかかっている。飛騨の平湯の大滝だの、白山白水の滝だのを、うつつに見聞きしたお雪ちゃんにとっては、その滝が、必ずしも珍しい滝だとは思いませんけれども、周囲の異様なる景色には打たれざるを得ないのです。
「胆吹の弥三郎よりも、もっと昔、この洞窟《ほらあな》の中に山賊が棲《す》んでいたのです、大江山を追われた酒呑童子《しゅてんどうじ》の一族が、ここを巣にしていたのです。その時に、公家や民家から奪い取って来た美しい女たちを、山賊が競《きそ》って弄《もてあそ》びました。そうして、この滝壺で汚物を洗わせたということです。その山賊を征伐するために頼光父子が、渡辺の綱や金時を連れて、二万余騎で攻めかけて来たということですから、山賊の方も少々の数ではなかったんでしょう、ですから、このくらい大きな洞窟が無ければなりません。さあ、もう少し奥へ行ってみましょう」
もう少し奥へと言ってのぞき込んだお銀様のうしろ姿を、お雪ちゃんは怖ろしいと思いました。怖ろしいの、こわ[#「こわ」に傍点]いのというのは、もう通り越しているはずなのですが、その時はもう、意地も我慢もなくって、
「お嬢様、もう、わたしは、ここでたくさんです。本来わたしは、あなたとお山登りをするつもりで出てまいりました、こんな、洞窟入りをするお約束じゃなかったはずでございます」
一生懸命にこれだけのことを言いますと、後ろを振向かないお銀様は冷然として、
「いいえ――お山登りなんぞは、いつでもできます、あなたとわたし二人は、ほかに見るものと見せたいものがあればこそでしょう、暫く
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