味がありますのよ」
 そう言ってお銀様から遊意をそそのかされても、お雪ちゃんは少しも、誘われる気にはならないで、かえって命令のように響きます。百花が絢爛《けんらん》であろうとも、香気が馥郁《ふくいく》であろうとも、温か味があろうとも無かろうとも、白馬ヶ岳のお花畑のあくまで清く、あくまで冷たいのには心を惹《ひ》かれたが、ここでは何と言われても、その気になれないのは、多分お銀様その人の口から言われたというばかりではなく、さきほどの大風と、それに続いての弁信法師と大鷲との印象が、どうしてもお雪ちゃんをして、この胆吹の山の山道を懐しがらせるようにしないものでしょう。その難色を見て取ったお銀様は、附け加えて言いました、
「それから頂上へ行くと、とてもながめがまた日本一です、北の方の高山という高山が、みんな眼の中に落ちて来ると共に、南の平野も、西の京洛も、それにあの通り日本一の大琵琶の湖が、眼の下に控えているのですもの、風景の好きなあなたが、それを好きになれないはずはありません。文永の昔、胆吹の弥三郎という山賊がこの山の頂上に腰をかけて、琵琶湖の水で足を洗いました、その時に湖水を取りひろげようとして土を運びましたが、その土の畚《もっこ》の中からの落ちこぼれが、あの竹生島《ちくぶじま》や、沖ノ島になって残っているのだそうです。胆吹の西の麓、姉川を渡ったところにあるあの七尾山も、弥三郎がつき固めた土くれだということです。それからまた東の麓には、俗に泉水といわれているところがあって、そこには千人の人を容れられる洞穴《ほらあな》があります、それが弥三郎の住居であったといわれているけれど、わたしたちは、もそっと奥へ突き進んで、人の全く見られないところを見ることができるのです」
 お銀様は、風景の次に、伝説を以て、お雪ちゃんの想像心に訴えて、これが遊意をそそろうとしたが、それでもお雪ちゃんの気の進まないのをもどかしがって、
「おいやですか」
「いやではありませんけれども……」
「あの大風の中を、弁信さんでさえ登って行ったではありませんか、それを意気地のない、お雪さん、あなたは越後の白馬ヶ岳や、杓子岳《しゃくしだけ》までも登ったではありませんか、好きな人と一緒ならば、畜生谷を越えて、加賀の白山までも登りかねないあなたではありませんか、わたしと一緒ではおいやなのですか」
「そういうわけではありませんが」
「そういうわけでなければ、わたしと一緒に行って下さってもいいでしょう、あなたはお山に慣れていらっしゃるけれども、わたしはそうはゆきません」
「いいえ、わたしだって……」
「あんなことを言っている、白馬ヶ岳から高山の花を摘《つ》んだり、雪の渓《たに》を越えたりして、越中の剣岳《つるぎだけ》や、あの盛んな堂々めぐりを、いい気になってながめて来たくせに」
「それはそうかも知れませんが」
「さあ、早くなさい、風もすっかりやみましたよ」
「それではおともをいたしましょう」
「わたしと同じことに、ここにこうして白い行衣《ぎょうえ》も、白い手甲脚絆も、金剛杖も、あなたの分をすっかり取揃えて持って来ましたから、これをお召しなさい」
 なるほど、誂《あつら》えて対《つい》にこしらえさせたと思われる装束が、早くもお雪ちゃんの枕許にちゃんと並んで催促している、こうなっては退引《のっぴき》がならない。
 圧倒的に、いつのまにか、お銀様と同じこしらえをさせられてしまって、いざとばかり、戸外へ出ますと、星はらんかんとして輝き、胆吹の山が真黒に蟠《わだかま》っている麓は、濛々《もうもう》たる霧で海のように一杯になっているのを見ました。お銀様は無二無三にその霧の中へと没入して行くので、お雪ちゃんも同様の行跡を猶予することを許されません。
 雲霧晦冥《うんむかいめい》の中に没入して行くお銀様、それに追従せしめられて行くお雪ちゃん、ある時はお銀様の姿をはっきりと霧の中に浮ばせてみとめ、ある時は、どこにどう彷徨《さまよ》うか見失って呆然《ぼうぜん》として立つと、不思議にお銀様が霧に隠れる時は、きっとすずしい鈴の音が聞えます。
 ふと気がつくと自分は、お銀様のあとを追うているのではない、ただ清らかな鈴の音を追うて、雲霧の中を突き進ませられているのだと感じた途端に、また、ありありと、お銀様の姿が先に立って、すっきりと歩み行くものですから、その鈴の音を聞いている時は、清水の湧くような爽《さわ》やかな気分に打たれますけれども、お銀様の姿のひらめくのを見ると、ゾッと、身の毛が立つような思いをします。かくて、見えつ隠れつして行くうちに、ついに人間としてのお銀様の姿が次第次第に竜蛇《りゅうだ》に変って行くのではないかと疑われ出してきました。
 今や、憎らしいほど真黒く蟠《わだかま》っていた、山容雄偉なる胆
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