、押しつ押されつ、それっきりになったあの二人の山狩が、つかまえた鷲の子のことでありました。
 それが思い浮ぶと、お銀様は覆面の中で二三度うなずいて、
「わかりました、わかりました」
と、さきほどお雪ちゃんが言った通りに鸚鵡返《おうむがえ》しをして、
「あの鳥が村へ下りたのは、自分の子を取戻したいために下りたのでございます」
「どうして、そんなことがおわかりになりますか」
と、その以後ばかりを知って、以前を知らないお雪ちゃんには、以後を知らず、以前を体験しているお銀様の言うことが、全くわかりませんでしたけれど、実はこの場合、二人の実見を合わせて、はじめて完全な全体観が出来上るのでありました。お銀様がそれを説明することは雑作もないことでした。
「それはね、ごらんなさる通り、あの大きな鳥は、村里の上を離れないで、村人と追いつ追われつしているでしょう、珍しく鳥の中の王様が人里へ現われたものだから、村の人の騒ぐのは無理はないが、鉄砲の音にも驚かずに、ああして鳥が離れないのは、あれは、村の人に自分の子を捕られたから、それを取戻そうとして覘《ねら》っているのです、わたしはさきほど、村の人がこの鷲の子を捕ったのを知っていますから、あの大鷲の心持がよくわかります」
「あ、左様でございましたの、それで、自分の子を取戻したいがために、ああして鉄砲の音にも、人の数にも怖れないで、戦っているのでございますね」
 二人は、その出来事に、すっかり解釈がついてしまうと同時に、それをながむる興味もいっそう高潮してきました。
 人と鳥との争い――それはいずれが勝つかということの興味よりも、お雪ちゃんの心では、あれほどの執着だから返してやればよいのに――捕えた子供をはなしてやりさえすれば、猛禽も満足して帰ることでしょうのに。ところが、ああなっては人間も慾だから、捕えた子を返してやらないのみか、飛び込んで来た親をまで捕えずには置くまいとして意気込んでいるのだ。
 ですけれども、この場合、親鷲に勝利を得させてやりたい――ような心持が、お雪ちゃんの胸の中では繰返し繰返し念ぜられてならないのに、覆面のお銀様は冷々として、人鳥いずれが勝とうとも、負けようとも、われ関せずといったような素振りでながめているのが物足りない。
 そうしているうちに、鉄砲は引きつづいてパンパンと鳴り、なかには弓矢を持ち出したり、長竿を担《かつ》ぎ出したりするものまで見えましたが、鳥の姿がまた森かげに隠れて見えなくなってしまいました。しかし、村人がまだ騒がしい気分を以て走り廻り、立惑うているところを以て見ると、大鷲を射留めたものでも、捕縛したものでもないことはよくわかります。
 こうして、やや長いこと、おそらくは何とか解決のつくまでは、二人はこの場の光景から眼をはなせないことになっていると、けたたましく、前庭の木戸口から人の息せき切った発音があって、
「申し上げます、只今、村の人が大勢これへ押しかけて参りまして、生捕った鷲の子を、いくらでもいいから、こちらの奥様に買っていただきたい、買っていただけなければ、暫く預かっていただきたいなんぞと申して、これへ持って参りました、いかが取計らいましょうか」
 この報告を聞くと、お銀様が、だから言わないこっちゃない――と言いたそうな表情で立ち上り、
「今、そちらへ参ります」

         六

 お銀様が急に立去った後、急にお雪ちゃんは、何かとそぐわない気持で、ぼんやりしていると、後ろから、
「お雪ちゃん――」
「おや、弁信さんじゃありません? 弁信さん、あなたもあんまりですね」
とお雪ちゃんは、振返って弁信の姿を見るが早いか、こう言って怨《えん》じかけたほど、事が急促の思いになりました。
「はい」
 抜からぬ面《かお》で立っている弁信の姿を改めて見直すと、お雪ちゃんが、こみ上げて来るような悲痛と、それから、何と言っていいか知れない、昔の感じに煽《あお》りかけられました。
 それは、その昔、弁信が自分の家の甲州上野原の月見寺で、机竜之助に斬られた時のあの表情と少しも変らない、やつれきった姿であるのを見ると、この人は、斬られて来たのではないかと、胸を打たれるような心になると共に、そのあたりの光景までが、弁信が伝って来た廊下づたいの構えまでが、あの時の自分の家の寺の住居そっくりが、ここへ移されたのではないかと、お雪ちゃんは一時、くらくらと瞑眩《めまい》がするようになって、
「弁信さん、お前さんはまあ――」
と言ったきりです。
「お雪ちゃん、どうですか、この新しい村の、新しい御殿の住み心地は……」
と言いかけた弁信の調子は、少しも変ったものではありませんでした。無論、斬られてなんぞ来たわけではなく、これがいつもの調子の弁信なのですが、この際のことが、なんだか不意に
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