い」
「飛脚の方は滞りなく出立を致させましたから、御安心ください」
「御苦労さまでした」
その撫附髪に水色の紋つきというのは、見たことのあるようなと思うも道理、これぞ、短笛を炉中に焼いて、おのが身の恋ざんげを試みた不破の関屋の関守氏でありました。
その取りしきりぶりを見ると、この男は、あれから不破の関屋の関守をやめて、ここに来て、専《もっぱ》らお銀様の事業の番頭役を引受けている気分は確かであります。
ここで右の関守氏は、右のわがままな女王を案内して先に立ち、お銀様のために、江北殿の隅々の案内に当ります。その途中、説明するところを綴り合わせてみると、江北殿というものには、ほぼ、次のような歴史があるのでした。
お城あとは古《いにし》え佐々木京極氏のお城あとであり、江北殿はその京極屋形のあったところだという。京極氏は江北六郡の領主で、元弘建武以来の錚々《そうそう》たる大名であり、山陰の尼子氏の如きもその分家に過ぎない――松の丸の閨縁《けいえん》によって豊臣秀吉の寵遇《ちょうぐう》を受け――といった名家であることは、不破の関屋の関守氏が事新しく説明するまでもなく、お銀様の歴史の知識には充分なる予備がある。お銀様は、その名家の屋形のあとをそっくり自分のものにすることに、多少の満足を覚えていないではない。
不破の関守氏は、屋形の隅々をめぐり、ここを指し、彼処《かしこ》を叩いて、往昔の居館の構図を聯想してお銀様に地の理を説明し、ほぼその要領をつくした後に、お銀様のための居館としての一部まで戻って来ると、そこで、自然に別れて、関守氏は工事の監督の方へ取って返し、お銀様はお銀様で、この館《やかた》の中へ没入してしまいました。
四
その前後の時、このお城あとの西南隅のピークの一角に、お雪ちゃんがおりました。
これは別に離れのようになっているけれども、離れではありません。あちらを本丸とすれば西の出丸になります。廊下伝いに渡って行ける間柄ではあるが、庭を廻って、縁側から出入りするのがかえって人の勝手になっているのは、その縁から庭先が開けてすばらしいながめになっているせいでしょう。お雪ちゃんも、この縁先へ台所仕事を持ち出してやっていることほど、このすばらしい情景をよしとしました。それはそのはずです、ここから眺めてごらんなさい、日本第一の大湖、近江の琵琶の湖の大半が一目なんです。
自然に、その琵琶の湖をめぐるところの山河江村までが眼の下に展開されていようというものですから、誰だってこの縁先を祝福せずにはおられない道理、まして風景を愛することを知るお雪ちゃんのことです、さいぜん摘《つ》み取って来た野菜類を洗って、ここへ掬《すく》い上げて来て、俎《まないた》、庖丁、小桶の類までこの縁先に押並べて、そうして琵琶湖の大景を前にしてはお料理方を引受けているところです。
お雪ちゃんが庖丁を使っている手を休めて、まぶしそうに眼を上げて、またうっとりと、なだらかな胆吹尾根から近江の湖面を眺めやった時――壺中の白骨《しらほね》の天地から時あって頭を出して、日本の脊梁《せきりょう》であるところの北アルプスの本場をお雪ちゃんは眺めあかしておりました。それからふと、飛騨の高山の相応院の侘住居《わびずまい》へ居を移してみると、眼下に高山の市街を見て胸が開いたほど眼界の広きを感じましたが、今ここへ来て見ると、その比較ではありません。
さすがに日本第一の琵琶の湖は大きい。周囲七十五里と言ってしまえば、それまでですけれども、こうして見たところ津々浦々は、決して七十里や百里ではないように思われてなりません。
まして、この大湖の岸には、飛騨の高山と違って、日本|開闢《かいびゃく》以来の歴史があり、英雄武将の興亡盛衰があり、美人公子の紅涙があるのです。さすが好学のお雪ちゃんにしても、いま直ぐにその歴史と伝記を数え挙げるに堪えないのですけれども、歴史と伝記に彩られているこの山水の形勢が、お雪ちゃんの詩腸を動かさないということはありません。
あわただしい今日の日が過ぎれば、やがていちいちの指呼のあの山水についての、人間の残したロマンを訪ねることが、今のお雪ちゃんの生活に清水のように湛《たた》えられているのです。
今も、うっとりとながめていると、ふと比良ヶ岳のこなた、白雲の揺曳《ようえい》する青空に何か一点の黒いものを認めて、それを凝視している間に、みるみるその一点が拡大されて、それは鵬翼《ほうよく》をひろげた大きな鳥、清澄の茂太郎がよろこぶアルバトロスを知らないお雪ちゃんにとっては、まあ、何という鳥でしょう、あんな大きな鳥は見たことがありません――白骨の山の奥にいる時だって見たことのない鳥。
そう思って右の一点の鳥影から眼をはなすことではありませ
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