らりと、それでも歩くものと歩かないものとの距離ですから、みるみる相当の隔りが出来たが、このひやかしのお客様は、柳原河岸で洋服の値切りをする客のように、番頭の呼戻しを待っているという駈引きもないと見えて、さっぱりと歩み去って行くのに、未練たっぷりの二人はまだ立去りきれないで、馬鹿な面をして、お銀様の後ろ姿を見送っているばかりです。
こうして、お銀様の姿の小さくなるまで見送ってまだ立去りきれなかった二人が、また改めて面を見合わせて、
「ありゃ、このごろ、お城あとの地面が売れたそうだが――あのお城へ来る奥様じゃねえか」
「そうかも知れねえ」
「国中一番の大金持だって話だから――」
「そうだ――なら、お気の変らねえうちに売ってしまった方がいいかも知れねえ」
その時、二人とも、また逆さにころがり震動してお銀様のあとを追いかけ、
「おーい」
「もうし」
「もうし」
「御新造様《ごしんぞさま》――」
「お城あとの奥様」
呼ばれてお銀様が振返ると、
「もうし、この鳥をいくらで買うておくんなさる」
「いくらでも、お前さんたちの欲しいと思うだけの値をつけてごらん」
「え!」
彼等二人は、またそこで二の句がつげなくさせられてしまいました。
三
そこで、とうとう、猛禽の子売買の路上取引は成立せず、ついにお銀様は大手の崩れ門から城跡の中に身を隠してしまいました。
お濠外《ほりそと》に残された二人の農夫は、相変らず馬鹿な面《かお》をして、ぼんやりと、相手を呑んでしまってけろりとしている門内を見込んでいるばかりです。
そこで、門内へ入ったお銀様の手に何物も抱えられていず、ぼんやりと取残された二人の男の中の一人の腕に、最初の通り、禽王子入りの風呂敷包が後生大事に抱えられている。
一方は売ろうと言ってわざわざ追いかけて来、一方はいくらでも糸目なしに買おうと申し出でたらしいのに、その取引が行われずして、一方は手ぶらで門内へ入り、一方は、あっけらかんとして、物品をストックしている体《てい》は少し変です。
しかし、その取引は取引として、お銀様が何物も持つことなくして、この城あとの大手の崩れ門から入ると、早くも戞々《かつかつ》として斧の音、鑿《のみ》の響が伝わります。
邸内は今し、盛んな普請手入れの時と思われます。
大手の崩れ門から入ったお銀様は、鷹揚《おうよう》として、この領土をわがもの顔の気位は更に変りないところを以て見れば、この普請、手入れ、斧の音、鑿の音というものも、他人のものではなく、自分の権力によって動かされている物の音だと聞かないわけにはゆきますまい。事実――お銀様のこの間中の理想と、計画と、実行とが、ここにこうして現実に行わるるの緒につきつつあるのです。
と言ってしまっただけでは、地理と方針に、多少の無理があり、撞着《どうちゃく》があることを、不審とする人もありましょう。
第一、あの時に不破《ふわ》の関の関守氏の紹介によって、お銀様が西美濃の地に、かなり広大な地所を購入し、岡崎久次郎の助けを求めず、西田天香の指導を仰がずに、ここへお銀様独流の我儘《わがまま》な、自由な、圧制者と被圧制者のない、搾取者と被搾取者のない、しかしながら、統制と自給とのある新しき王国を作ろうとして、そのことをトントン拍子に進行せしめたのは、前に言う通りであるが、その土地というのは、あの時の話であってみると、足利尊氏《あしかがたかうじ》以来の名家、西美濃の水野家の土地を譲り受けるということであったが、ここへ来て見ると、これは見る通り胆吹山の南麓より山腹へかけて――北近江の地になっています――その間に、どういう変化があったのか、或いは実地踏査の結果、西美濃の地が何か計画に不足を感じているところへ、偶然この北近江の地の話があって、急に模様変えになったのか、その辺の事情はまだわからないが、しかし、北近江といっても、ここは西美濃と地つづきの地形だから、変化融通がきいて、現実の示す通り、彼女はここに王国の礎《いしずえ》を置くことになったものらしい。
この界隈すなわち――京極の故城址|上平寺《かみひらでら》を中心にして、左に藤川、右は例の弥高《いやたか》から姉川にかけての小高い地点、土地の人が称して「お城跡」という部分の広大な地所内を、お銀様が我物顔に、この驕慢《きょうまん》な歩みぶりを以てみれば、この辺一帯の地は、まさしくこの人の所有権内にうつり、そうしてお城あとの中の「江北殿《こうほくどの》」と呼ばれている部分の修補と復興が、これから女王の宮殿となり、新理想境の本山となろうとするものであるらしい。
そこへ、ひょっこりと、奥の方から姿を現わした、撫附髪《なでつけがみ》に水色の紋つきの年配の男がありました。
「や、お帰りでござったか」
「は
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