んでしたが、その鳥は次第次第に近づいて来て、お雪ちゃんの館《やかた》の上へ来ると、姿が見えなくなりました。
 お雪ちゃんにとっては、その大きな鳥は、今し、あの湖水のあちら側の比良ヶ岳から来て、そうして、自分のいるこの裏山の胆吹まで、ほとんど一息に飛んで来たように思われないではありません。
 鳥の姿は、こうしてお雪ちゃんの頭上から胆吹の山に向って消えてしまったが、それはそれとして、なお山水の大景に見惚《みと》れていると、不意にまた頭上で、バサと大きな物音がしたのに驚かされました。頭上とは言うけれども、この館の屋根の上よりも高いところです。この屋根の上からピークへかけて押被《おしかぶ》さったように、枝をひろげた大きな松の木がありました。それは何百年という松の木で、直ぐこの庭の中央に根を張っているのですが、幹がすっくと太く高くて、枝が上空に一むらをしているものですから、遠く望めば霊芝《れいし》の如く、車蓋《しゃがい》の如く、庭へ出てみると、その高い枝ぶりは気持がいいのですが、この室内では盤崛《ばんくつ》している太い幹と根元を見るだけで、枝葉は見えないのです。
 頭上の物音というのは、この大きな松の上からバサと起りました。
 そうすると、そのあたりいっぱいに影を引くように舞い下りたものは例の大きな鳥、以前にも大きな鳥に相違ないとお雪ちゃんはながめたのだが、今度のは、ほんとうに、眼の前、咫尺《しせき》の間《かん》に羊角《ようかく》して飛び下って行くのですから、とや[#「とや」に傍点]から追い下ろされた鶏を見るほど鮮かに、その鳥の形を見ることができて、ハッと眼を澄ましました。
「鷲《わし》!」
と直覚的に、お雪ちゃんはさとりました。鷲の実物をまだこんなに近く見たことのないお雪ちゃんでしたけれども、鷲でなければこんな大きな鳥はあり得ないという直覚と、実物では目《ま》のあたりに見ないが、絵ではずいぶん見せつけられている猛禽の王の姿が、はっきりと眼の前に落ちたのです。
 眼をすましていると、右の猛禽は、すさまじい勢いで羽ばたきをして、羊角に中空を押廻り、それから急に翼を旋回して、ほとんど地上とすれすれに舞い下り、そうかと思うと、また相当に高く舞い上っては、思い出したように直下して来るかと思えば輪なりになって舞っている、その挙動が何となしに尋常でないことを想わせられてなりません。
 右の大鷲は、いったん胆吹のとまり所へついたが、何をか見つけたものだから、また飛び戻って来たのだ、何かこの下の平原で見つけものをしたものだから、それを捕りに来たものらしい。
 お雪ちゃんはそう思って鳥の挙動を見守ると、全く物狂わしいように横転、逆転、旋回、飛上、飛下を試みているのが、いよいよ只事とは思われないのです。
 恐ろしい鳥、鳥の中での王――あの勢いで人間をさえ攫《さら》って行くことがある。何をあの鳥が地上に見つけ出したのだろう、覘《ねら》われたものこそ災難――
 お雪ちゃんはそう思って、下の原野を見おろしたけれど、鳥は中空にあるから見得られるものの、獲物《えもの》がこの眼の下いっぱいの原野のいずれにあるということなどが認められようはずがありません。
 鷲が人間を攫うということはいつも聞いている――もし不幸な人間の子が――もしや、米友さん――あの人は小さいから、もしや子供と間違えられて、あの荒鷲の餌食に覘われているようなことはないか。ああして一心に木の根を掘っているところを、後ろから不意にあの大鷲の鋭い爪を立てられるようなことはないか。鷲が大人を攫ったという話はまだ聞かないが、子供を攫ったということは極めてよく聞いている。米友さんは柄が小さいから、鳥の眼には子供と見られない限りもない――お雪ちゃんは、とりあえず、米友のためによけいなことまで心配になって、わざわざ縁を下りて、下駄をつっかけて、ここから左へよればやはり視野の一部分の中にはいる、さいぜん米友があらく[#「あらく」に傍点]を切っていた開墾地のあたりを見とおしましたけれども、それらしい人の影が認められませんでした。それにも拘らず、大鷲の物狂わしさはいよいよ一層でありました。
 単に獲物を覘うならば、あんなに騒ぐはずはない、猛禽の中の王ともあるべき身が、兎や小鳥をあさるのに、あんなに仰々しい振舞をするはずはないと、お雪ちゃんは案ぜられてきました。
 地上を探しあぐねたように、この猛禽は、今度は一文字に羽をのして、弥高《いやたか》から春照《しゅんしょう》の方の人里へ向けて飛び狂って行くようでしたが、そのうちに姿が見えなくなったのは、遠く雲際に飛び去ったわけではなく、近く胆吹の山中へ舞い戻ったわけでもなく、どこをどこと見定めたわけではないが、お雪ちゃんの眼には、たしかにあの人里の中へ大鷲が飛び下りてしまったと思わ
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