如く、殊勝なる霊魂復活の思想なんぞはありはしない。
そこで怪奇の目的が、大自然へのあこがれでもなく、大自然力への奉仕、或いは恐怖でもなく、ただそれより以降、六千年の人間の世にうごめく眼前の我慾凡俗の間の、呪《のろ》いと、恨みと、嫉《ねた》みとが生み上げた、復讐的精神の変形として見るよりほかは見ようが無いらしい。
だから、彼女のスフィンクスの怪奇の対象は、彼女自身の、むしゃくしゃ腹の具象変形に過ぎないと思われる。
そこで、この絵像の与うるところの印象は、全体に於てノッペラボーで、部分に於て呪いで、嫉みで、嘲笑で、弛緩《しかん》で、倦怠で、やがて醜悪なる悪徳のほかに何物も無いらしい」
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 そこで、この何とも言えないグロテスクの一種の力が、与八をして、当然砕かねばならぬものと覚悟をきめていた悪女像に向って、鑿《のみ》を振り上げながら、一種の愛惜《あいじゃく》、未練《みれん》――或いは別な意味での尊重に対する観念を起させたと見えて、金槌を振り上げたなりで、ずいぶん長いことの間、その悪女像を見つめていたのですが、最後に、
「ああ、そうだ、いい工夫がある」
 彼はどういうつもりか鑿と槌とを打捨てて、再び右のグロテスクを抱えると共に、その大力を利用してクルリと石像の裏返しを行なってしまいました。
 そこで、今までは仰向けに与八と睨《にら》めくらをしていた悪女が、今度はすっかり後頭部と背中を見せてしまったものです。
 それから後に、何の用捨もなく、与八が右の悪女の後頭部と背面に鑿と槌とを振いはじめました。但し、こんどは砕く目的ではなく、彫る目的のためでありました。つまり悪女の後頭部及び背面を別の手法もて、すっかり彫りつぶそうとの目的であることが明らかです。
 そうして、何を与八の彫刻術がそこに表現を試みようとするか。
 一日二日して、ようやくそのえたい[#「えたい」に傍点]がわかるようになりました。その表現の顔面――それは悪女像を説明するような小むずかしい知識を必要としない、本来与八の有する彫刻術の技能はそれよりほかに表現の方法を持たないところのもの、つまり沢井の海蔵寺以来の手練――与八は、悪女の裏に地蔵様の面影《おもかげ》を彫りつつ彫り進んでいるのであります。

         二十六

 こうなると、どちらが表面で、どちらが裏面だかわからなくなるが、ともかく、与八としては背面の悪女は悪女としての芸術を惜しみながら、自分は自分としての表現を、鑿と槌とに打込んでいる次第なのです。
 与八がこの彫刻をはじめ出した前後から、不思議と子供たちが、この地点と、新しい台座と、作事小屋との近くに、一人|殖《ふ》え、二人殖えつつ集まり出して来ました。彼等は皆、ここによい遊び場を見つけたとして集まって来る。もとより藤原家の子供ではありません。
 この附近を中心としての遠近の村里の子供が、ようやくこの地点へ群がり出すようになってきました。
 その子供たちが、誰が教えるともなく、山から採って来た花卉《かき》を、与八のこしらえた新しい壇のまわりに植えはじめました。
 現在、花の咲いている草もあり、木もあり、来春を待って花を持つべき種類のものもある。それを壇の周囲に植えることを楽しむようになりました。
 そうして彼等はまたこの遊び場でおのおのの遊戯を持ち出して戯れ遊ぶ。ある時、女の子の一群が、お手玉をはじめる。
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こここめばら
さいたかどん
天神弓矢の松原どん
お江戸の花が
咲いたかどん
たつみやのお裏の
ばらぼたん
一枝おくれ吉野さん
一枝やるもの
花じゃもの
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 与八は、そのお手玉唄を面白いと思いました。また或る時は、その前の地面をつき固めて光るほどに磨いた上で鞠《まり》をつく、あるものは向き合って掌《て》を打って唄う、ある時はまた羽根をつく、おはじきをする、拳《けん》をうつ、立業《たちわざ》では鬼ごっこをする、やがて竹馬に乗って来るものがある、凧《たこ》を飛ばしはじめる者がある、それが、やがて、与八の仕事場の前に群がり立つようになったのも自然です。
 それから与八の彫刻ぶりに興味を持ち、その周囲に群がり、次第次第になじみが出来てくると、これはお松と共に、武州沢井で教育に着手した当時と同様の空気が、おのずから現われて来ました。
 しかし、与八としては、お松ほどの教養があるわけではないから、進んでこれらの子供をどうしようの計画も起らないで、ただ彼等の為《な》すがままにして、彼等と共に遊ぶ心でいると、子供たちは、次第次第に、土地の自然そのものから和《やわ》らげてゆきます。
 土地の自然そのものが、子供たちによって景気づけられてゆくのと合奏するように、子供たちの群《むれ》が群をよんで、人気の賑《
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