はずはない。それだから父としては、むしろ、それに触れることを他に向って差止めようとも、それに一指を加えろなんぞと指図をするはずはないのです。そのくらいなら、最初こんなものを建設するその時に差押えてしまっているでしょう。
 唯一の親権者たる人でさえ、それに触るることを怖れているものに対し、それ以外に命令を下して、この馬鹿みたような男をそそのかす人があるとも思われない。よしあったとしても、風来の与八として、それを用うべくも従うべくもあろうはずはないのです。
 してみれば、これは当然――当の暴女王の直接命令でない限り、事に従事している者の無知がさせる業でなければならない――与八は馬鹿みたような男だから、その辺にいっこう無頓着で、こういう暴挙に平気で取りかかっているものらしい。
 だが、それにしても親権者たる伊太夫の黙認がない限り、こんな仕事が平然として続けて行けるべきはずはないのですから、伊太夫も命令こそ下さない、許諾《きょだく》こそ与えないけれども、与八の為《な》すことに相当の諒解を持っていることには相違ありますまい。
 もちろん、その通りです――ある晩のこと、例の如く伊太夫は、与八が米を搗《つ》きながら郁太郎《いくたろう》に文字を教えている納屋《なや》の中へ話しに来たついでに、こういうことを言いました――
「なア、与八どん、こないだの話、この郁太郎殿を、わしが家の養子にして、お前さんを後見にしたいと言うたあの話、あれはお前から承知とも不承知とも、まだ返事を聞かないが、ともかく、お前がこうして安心してわしのところに腰を据えていてくれることは、とりも直さずわしの言ったことに同意ができないまでも、わしの心中を諒解してくれていることと思って、わしは嬉しく思っておるがな、どうだ、与八どん、居ついてくれる気持があってもなくても、こうして納屋にばかり燻《くす》ぶっていてもつまるまい、わしがこの屋敷のうちのどこでもいいから、お前の好みのところを選定して、一軒別に家を建てなさい、つまり、郁太郎とお前と新屋《しんや》を一つ建ててみる気はないかね」
 伊太夫がこう言い出した時に、与八も少し乗り気になったものと見えて、
「それは有難い思召《おぼしめ》しでございます。先日の有難《ありがて》えお言葉にてえして、わしも、どういうふうに返事を申し上げていいかわからねえので、何とも申し上げねえのでございますが、どうも旦那の思召しが有難え上に、なんだか旦那のお胸のうちを考えてみますと、わしもひとりでに涙がこぼれるような気になりますでなあ、ああおっしゃられなくても、急にこのお屋敷をお暇《いとま》申す気にはなれねえでいるところでございます、新屋を一つ建てろとおっしゃって下さることは、直ぐにここで御返事ができます、どうかそうさせていただくことに願《ねげ》えます。なに、郁坊とわしの二人で臥起《ねお》きをする場所だけあればいいのでございます、いつまでもこうして、納屋に居候をさせていたでえておいてもいいのでございますが、納屋はまた納屋で用向があるでございますから、人間は人間として狭くとも一軒別にあてがっていただけば、こんな有難えことはございませぬ」
「うむ、よく言ってくれた、じゃあ早速、今日からでも、お前の好きなところへ地取りをしなさい、どこでもいい、そうして材木はいくらでも出してやる。大工も左官も、みんなあてがってやる、大きくとも小さくとも、お前の好きなように地取りをして、絵図面を拵えてごらん」
「はい、どこまでも有難えことでございます――それなら早速、明日からでもそういうことにお願え申すことに致しやして、それに就きまして、旦那様、その上に一つお願えがあるでございますが……」
「改まってお願いのなんのと言うがものはなかろう、言ってごらん」
「今、旦那様が好きなところへ地取りをしろとおっしゃいましたが、その地取りについて、わしらに望みがあるでございます」
「望みがあるならなお結構、その望みのところを取りなさい」
「では、お願え申しますが、あの旅においでになったお嬢様とやらが建ててお残しなすった、あの悪女塚というところの地面を、わしにお借り申させていただきてえんでございます」
「えッ」
と、その時に、伊太夫が思わず眼をみはったくらいでした。
「与八」
「はい」
「わしはな、お前にドコでも望めと言ったが、あれだけは勘弁してくれないか」
「いけませんか」
「いけない理窟はないのだが、あれは遠慮した方がよい、第一わしが迷惑するより、あんなところを選ぶお前が迷惑するのが眼に見えるのだ」
「旦那様――わしの方の迷惑なんぞは、ちっともかまいませんが、わしはお屋敷のうちのどこよりも、あそこが好きなのでございます、あそこへ新屋を建てさせていただきたいのでございます」
「それは困るな」
「ねえ旦
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