お》から胸いっぱい忽《たちま》ち泥だらけとなって、七顛八倒《しちてんばっとう》する有様は見られたものではありません。
見られたものでないからといって、この際、通りかかった人は、それを見過すわけにはゆかないでしょう。知った面であろうとなかろうと、こうして田の中で七顛八倒している人を見れば、そのまま見過しはできない道理ですけれども、あいにく、その時は人通りがありませんでした。
人通りがあってもなくても、知る人は知る、ここにひとり七顛八倒して、お汁粉の化け物のようになって、ひとり泥試合を演じつつある御当人とては、当時、下谷の長者町で有名な、十八文の道庵先生その人であります。
「ああ深《ふけ》え! こいつはたまらねえ」
一方の足を抜けば、また一方の足――足が抜けたかと思うと、諸手《もろて》がそれよりも深くハマリ込んでいる。
かわいそうにわが道庵先生は、ぬきさしのならない深田地獄へ没入の身となりました。
そもそも道庵先生たるべき身が、どうしてこうも無残な運命にでくわしたかと言えば、それにはそれで幾分同情すべき理由もあるのでした。
あの芝居の楽屋で、この長持の中へ酔倒して、その上へ突然、フワリと薄物が一枚落ちかかったものですから、誰にも気づかれないで、いい心持に寝こんでしまっていたが、程経て、千秋楽《せんしゅうらく》の柝《き》が入り、舞台楽屋万端取りかたづけの物音に目が醒《さ》めないというはずはないから、そうして長持も当然、納むべきものを納め、蓋をすべきは蓋をする運命とならなければならない瞬間に、この先生のいたずら心が勃発したと見らるべき理由があるのです。
「こいつは、あとの幕が面白くなりそうだ、ここにもう暫くこうして納まり込んでいると、知らず識《し》らず次の幕へかつぎ出される、さあ、その出場が問題だ、一番運を天に任せてみてやれ」
という気に道庵がなり出して、そのままわざと息を殺しているうちに、相当の衣裳類が上から積込まれ、蓋をされて、道庵もろともに楽屋から担ぎ出された成行きであろうことは、充分察せられる。
しかし、それからがまた問題で、いかに道庵であるとはいえ、衣裳類を上から積み重ねられた上に蓋をされたんでは、相当時間の後には窒息に陥る憂いがあるではないか。しかしそこは、またお手前物で、その辺の危険に思い及ばぬはずはない。といって、江州柏原駅にあらかじめ道庵を入れて運ぶために備えつけられていた長持が無い限り、道庵の呼吸のために安全弁が特設されてあろうはずもないから、いたずら心はいたずら心として、中に納まった道庵は蓋をされる瞬間に、そこは心得て、なんらか空気流入の調節方法を講じて置いたものと見なければならぬ。
こうして内心大満悦で、予想を許されざる次の舞台まで舁《かつ》がれて行って、そこで底を割って、やんやと大当りを取ってやろうという趣向が、中で揺られている間に、またいい心持になって、おぞましくもぐっすりと寝込んでしまったのが運の尽き?
幾時かの後、はじめて眼がさめて見ると、この体《てい》たらくである。
そのくらいだから道庵は、ここが石田村であるか、土田村であるか、そんなことは知らない。また、たった今の先まで威勢よく、自分というものが中に忍んでいるということは知らずに、手揃いで舁ぎ込んで来た若衆の面《かお》ぶれも知らなければ、事の重大な成行きなんぞも知ろうはずはない。
そこで、ごらんの通り、深田地獄の中でこけつまろびつ――気の毒といえば気の毒ですけれども、なあに本来当人酔興の至りで、自業自得というものです。癖になるから、ああしといて、さんざんに笑っておやりなさい。
二十四
お銀様の実家――すなわち甲州有野村の藤原家の広い屋敷内の一角で、与八としての新しい仕事が一つはじまりました。
それは、お銀様の拵《こしら》えた悪女塚を取崩しにかかっているということです。
これが非常に危険性を帯びた仕事であるということは、仕事そのものが必ずしも危険性を帯びているというわけではない、それがために後日捲き起さるべき風雲を予想してみると、知れる限りの人が誰ひとりおぞけをふるわないものはありません。
あの暴女王が、旅に立つ前に残して置いた記念事業です。それにさわることすら怖れられていたものを、与八という風来の馬鹿みたような男が、平気な面をして、順々と取崩しにかかっているのですから、それを見たほどの者が、ピリピリとふるえ出したのです。
もちろん、これは父としての伊太夫が命令を下して、そうさせている仕事でないことは明らかであります。親権者としての父の伊太夫が、この横暴なひとり娘に対して権威の極めて薄いことを知っている者にとっては、たとい暴女王の不在中とはいえ、それを取壊さしめて、その帰って来た後の風雲を予期しない
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