止まらない限り、米友も止まれない。無軌道に走って行くのは是非もなく、走れば走るほど、街道の役人の一行と民衆との混乱の現場から離れて行くのは是非もないことで、しかし、これだけを以て見れば、それは検地役人一行のためにも、米友のためにも、むしろ幸いであったということを、米友の知れる限りの人が是認し且つ安心する。
 一方怒髪天を衝《つ》いて、片っぱしからちかよる民衆をひっくくり上げた検地役人の一行は、いったいこの村は何という村? と詰問した時に、江州《ごうしゅう》石田村と聞いて、また彼等の心証を悪くしてしまったのは、やっぱり時の運でした。
「ナニ? 石田村、江州石田村? ではあの逆賊治部少輔の生れ故郷だな、道理で!」
 役人がグッと胸にこたえたこなし[#「こなし」に傍点]です。
 実際、その通りでした。ただ、石田村だけでは何のカドも立たない平凡な村名ですけれども、石田治部少輔三成の生れ故郷とあってみると、事が大きい!

         二十三

 石田治部少輔三成は、畏《かしこ》くも神祖家康公に向って、まともに弓をひいた逆賊の巨魁《きょかい》である。
 さればこそだ、ここに不逞《ふてい》の徒があって、我々の行手を遮り、その威光を汚そうと企てるのは、つまり大公儀そのもの、神祖の御威光を無視するも同様である。なるほど、石田治部少輔の故郷なればこそ、これを捨て置いては御威光にかかわる。
 検地の役人は、多分そんなふうにまで憎悪《ぞうお》が進んでいったらしい。そこで、いったん怒りが鎮まれば聞き置かるべきことも、いっさい耳を閉《とざ》され、お詫びがかなうべきこともかなわない形勢に悪化したのは是非もありません。名主に預けっぱなしで置いて、やがて御免のあるべき性質のものが、そこから長浜へ正式に護送という段取りになったのは、情けない出来事です。
 誰が何と言っても、この地名が石田であり、三成であることの限り、救われない事態となってしまった! よしこれらの長持をかついで来た若衆《わかいしゅ》が、実は中仙道筋の柏原駅外の若衆であって、彼等は何故に、こんなに勢いこんで長持をかついで来たかといえば、それは昨日、駅外で素人《しろうと》芝居を催した時に、その衣裳道具を長浜の然《しか》るべきところから借り出して来た、それを芝居も無事に打上げたから、多少の礼物をそえて、こうして若衆手揃いで返しに行く途中なのでありました。その途中、はからずも、こんな奇禍に逢ってしまって、今まで血気盛りの若衆たちが、すっかり血の気を失って、生ける空のないのも道理です。
 彼等は、数珠《じゅず》つなぎになって、長浜へと引き立てられて行きました。
 米友はかくの如くしてこの場を外《はず》れ、また米友が同行の両替の番頭と馬子も、表の騒ぎよりは、米友のあと、つまり責任ある両替の馬のあとを追ってはせて行く方が急務ですから、それを追いかけたのが勿怪《もっけ》の幸いでありました。
 こうして、石田村の畷道《なわてみち》の活劇は大嵐のあとのように一通り済みましたが、一つ済まないのは、役人たちの手で水田の中へおっぽり込まれた、問題の長持の後始末です。
 なるほど、借用のお芝居の衣裳道具が入れてあったに相違なく、その蓋《ふた》が、遥か彼方《かなた》にけし飛んで、中身が無残にはみ出している。それもおもに女物ばかり入れてあったと見えて、初菊《はつぎく》のかんざしだの、みさお[#「みさお」に傍点]の打かけだのというのが、半分は水びたりになっている。あまりに無残な体《てい》ですけれども、誰も手を出すものがありません。へたに手を出して、一味ととうの残党ででもあるように嫌疑を受けてはたまったものでない。
 せっかくの衣裳道具がジリジリと水びたりになって行く無残な光景を、たまたま通りすごす人も、怖る怖る横目に見て、足音を忍ばせて通り過ぎるくらいですから、この長持もまた救われないものの一つでありました。
 ところが、この長持が突然、大きなあくび[#「あくび」に傍点]を一つやり出したことです。
「あーあ、ううん、あーあ」
 長持があくびをするということは曾《かつ》てあり得べきことではない、それが確かにあくびをしたのですから、まず田にしが驚いて蓋をしたというわけなんでしょう。そうするとつづいて、
「こいつは、たまらねえ」
 その長持の、初菊や、みさおの衣裳の中が、急にもぐもぐと劇《はげ》しく動いたかと見ると、いきなり、その中から這《は》い出したものがありました。
「あ! こいつは、たまらねえ、こういうこととは知らなかった」
 あわてて長持の中から這い出したのはいいが、這い出したところが水田《みずた》です。その水田の中へ手をついたものだから、手が没入する、足を入れると足が没入する、後ろへひっくり返ると背中、前へのめると面《か
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