この、虎狼も三舎を避けるはずの江戸老中差廻しの検地役人の一行が、この長持と駄馬とのために行手を遮《さえぎ》られてしまったのですから、これはただで済まされないのが当然です。
「これは何だ!」
咎《とが》めようとしても相手がない、叱りつけようとしても相手が長持と駄馬では張合いがない。ただ張合いがないだけで済めばいいが、こういう際に、こういう品物が置かれてあることは、一層その激怒を煽《あお》ろうとも緩和するわけにはゆかないのです。のみならず、これはこのごろはやる、ややもすれば下剋上《げこくじょう》の階級闘争を煽るやからの一味ととうの故意にした振舞! 公儀役人に悪感情を持つやからが、わざとその出張を見はからってした嘲弄だ! こういうふうに解釈されたから、いよいよたまらないのです。
そうでなくてさえ、ややもすれば役人を誘って反抗気勢を揚げようとする、土百姓の分際で生意気千万! 今後の、この地方一帯への見せしめのため――老中差廻しの検地役人の一行が、ことごとく怒髪《どはつ》天を衝《つ》きました。
怒髪は天を衝いたけれども、差当り、その怒気を洩《もら》すべき対象物とては、長持と馬とのほかにありません。そこで、期せずしてまずその長持に手がかかるや否や、傍らの水田の中へがむしゃらに抛《ほう》り込んでしまい、駄賃馬に向っては、持合せの間竿《けんざお》で、その尻っぺたをイヤというほどひっぱたきました。
長持の方は田圃《たんぼ》に抛りこまれてもべつだん悲鳴もあげなかったけれども、駄賃馬は、いやというほど尻っぺたをひっぱたかれるや否や、悲鳴をあげて一時竿立ちになったけれど、直ぐに驀地《ばくち》という文字通りに駈け出しました。その駈け出した方向というのが、鳴物入りで群衆を集めている雨乞踊りの祭の庭であります。
このことがなくっても、馬があばれこまなくても、もう大方の雲行きで感得されるのですが、馬が驀地《まっしぐら》に駈け込んで来たので、群衆も、鳴り物も、雨乞いの祭の庭もあったものではありません。
右往左往の大混乱――それは、事実上、暴れ馬を一頭、人混みの中へ放してみれば、誰にも想像の行く大混乱が湧き上りました。
「お代官様だ!」
もう遅いのです。現場へ馳《は》せ戻って来た長持の若衆《わかいしゅ》たちは、いちいちその場でひっくくられて、ピシピシとなぐりつけられています。うろうろして近づく奴等は誰彼の容捨がなく引捕えて、ぴしぴしと縄をかけられるのです。
ですから、混乱の上に、大恐怖が加わりました。
相手が悪い!
全く相手が悪いに相違ない、お代官となれば、小大名のお代官でも大抵、怖《こわ》いものの看板になっている。それが大公儀直通の検地お代官なのだから始末が悪い!
みるみる引っくくられたものが束になって、幾十人というもの縄つきが、田の中にも、道の傍にも押し転がされてしまいました。村の相当の口利《くちき》きがお詫《わ》びに出て来ても文句を言わさず、それもぴしぴしと縛り上げられてしまうのだから手がつけられません。
かかる時、宇治山田の米友はどうした。それだけが一つ、この際の仕合せでありました。米友はこの騒ぎの途端に、表へは出ないで裏へ廻ったのは、お代官の鋭鋒をそれと知って避けたわけではなく、それと知れば、よかれ悪《あ》しかれこの男としては、役人のぴしぴし人見知りなくふん縛る現場へ飛び出して来ずにはいられないのでしたが、米友がそこへ出ないで裏へかけ出したというのは、ひとり難を避けるという気になったのではなく、暴れ出した駄馬を取抑えんがためでありました。米友としては、検地の役人の一行の余憤でこの馬が、イヤというほど尻っぺたをひっぱたかれたから、それでこうして暴れ出して来たのだとは思いもよりません。何かに驚かされて馬が暴れ出したのだが、何がこの馬をこんなに暴れさせたかということの詮索《せんさく》よりも、この際、この通り暴れ出した現場を取抑えることが、第一の急務でなければならないと悟ったのです。
そこで、一途《いちず》に取抑えに向ったけれど、本来、馬を取抑えるということは、向って来る奴を行手に立ち塞がって取抑えることの方が遥かに容易なので、それを追いかけて抑えるという段になっては、かなわないのがあたりまえです。なぜならば、四ツ足と二本の足です。ことに米友のは、その二本の足も一本は不満足なのですから、それで馬と競争はまず覚束《おぼつか》ないと思わなければなりません。
しかし覚ついても、つかなくても、それを追わなければならない急場の形勢でしたから、どうもそのほかに仕方がありません。
群衆の中へ追い込まれて、また更に群衆から驚かされた暴れ馬は、畔道《あぜみち》を、ただもう走れるだけ走っている、その後を米友が懸命に追いかけているのです。ですから、馬が
前へ
次へ
全52ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング