―ずっと向うの涯《はて》の山々が比良《ひら》比叡《ひえい》――それから北につづいて愛宕《あたご》の山から若狭《わかさ》越前《えちぜん》に通ずる――それからまた南へ眼をめぐらすと、あの小高い木の間に白い壁がちらちら見える、あれが井伊掃部頭《いいかもんのかみ》の彦根城だ。それからまたずんと南寄りに、石田三成の佐和山の城あとが一段高く、その間の山々にはいちいち古城址がある。臥竜山《がりゅうさん》の山上にもう一つ秀吉の横山城――それから佐々木六角氏の観音寺の城、鏡山、和歌で有名な……鏡の山はありとても、涙にくもりて見えわかず、と太平記にもある、あれだ。それから三上山《みかみやま》、近江富士ともいう、田原藤太が百足《むかで》を退治したところ――浅井長政の小谷《おだに》の城、七本槍で有名な賤《しず》ヶ岳《たけ》。うしろへ廻って見給え、これが胆吹の大岳であることは申すまでもあるまい。それに相対して霊仙ヶ岳――」
 その浪人者が、わざわざ立って指しながら、してくれた一通りの説明によって米友の眼が、またそれぞれの内容を備えてかがやきました。
 だが、もう帰らなければならない。
 少々暇つぶしをし過ぎたきらいがある。それで米友が、
「どうも有難う――おいらは、もう帰らなけりゃならねえ、会所へ両替の使に来たんだから、少し間《ま》がのび過ぎた」
「そうか――では、帰り給え。しかし、気をつけて帰り給えよ、それは拙者から言って聞かすまでもないことだが、今日は別して、通行に気をつけなくてはならん」
「それは、どういうわけなんだ」
「それはな、さいぜん、それ、君に向って尋ねたろう、検地の代官がこの土地へ来たか来なかったか、そのことをうっかり拙者が君に尋ねたろう、それなのだ。いいかえ、今日、乗込んで来ようという検地の代官は、代官は代官でも、ちっと目方のちがった代官で、江戸の老中から特別に差遣《さしつか》わされた検地の勘定役人だ」
「江戸の役人であろうと、ところの代官であろうと、おいらには別に当り障《さわ》りはねえ」
「むろん、君には当り障りはないが、この地方一帯のためには大きに当り障りがあるのだ。こんど来た検地の役人というのは、今いう江戸の勘定役人で、市野|某《なにがし》という者だ、北陸地方からずっと巡り巡りてこの近江の国に入り込んだのだが、本来この市野某というお役人が、心術がよくない、老中を肩に着て横着があるというので、到るところで人民から怨《うら》みを受けている」
「ふうむ」
「その市野某なる者が怨み憎まれているという原因には、人民側のために大いに同情すべき理由があるのだ。この勘定方がしきりに賄賂《わいろ》を取る」
「そいつがいけねえ、役人の賄賂を取るのが一番いけねえ、賄賂を取る役人に限って、曲ったものを真直ぐだというのはまだいいとして、真直ぐなやつを曲ったものにしたがる」
「それだ、こんどの勘定役が老中の威光を肩に着て、ほとんど日本中をそうして検地をして歩くのだが、仙台とか、尾張とか、それからこの江州へ来ても、彦根藩あたりの強いところに対しては全く見て見ぬふりをするが、力の弱い小藩だと見ると、賄賂を出さなきゃうんといじめ抜いて尺を入れる、だからそれらの土地の良民が怨み骨髄に徹している。なんでも寄合って、この長浜へその到着するのを見計らい、思い切って陳情してみるのだということだ」
「うーむ、それだな、さっきあの舟で、人が続々と向うの草ッ原へ集まって来たのは」
「それだそれだ、拙者がこうして釣をしている鼻づらを、その舟がずんずん漕《こ》いで行ったのはたった今のこった」
「そうだとすれば、そいつは大変なことだ」
「大変なことだ、まさか老中差向けの役人に危害を加えるようなことはあるまいが、勢いの赴《おもむ》くところではどうなることかわからない、君子は危うきに近寄らずということもあるから、君も帰りには気をつけて、そんな場面にさわらないように通りなさい」
「なるほど」
「拙者の如きも、こうして釣を楽しんでおればこそだ、そうでもなければ、必ずしも君子ではないから、ついつい危うきに近寄るようなことになったかも知れない。それを思うと釣というものは有難いものだ、釣を楽しんでいると、世の中のことを忘れる」
「世の中のことを忘れるのも考えものだよ、自分だけ楽しめば、人は難儀をしても知らねえという了見は、どういうもんだかなあ」
「うむ」
と言って浪人者は、米友に胸のすくような返事が与えられないために、やむことなく黙するかのように見えました。そうすると、こんどは米友の方から、
「うむ、そうしてみると、どのみち、一味ととう[#「ととう」に傍点]だな」
「え?」
と、こんどはその悠々たる浪人ものが狼狽ぎみの返事であります。つまり、してみると一味ととうだなと米友が独《ひと》り言《ごと》の
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