お祭があるようなあんべえでもなし、おやおや、あの草ッ原のかげにみんな坐り込んじまったぞ。ははあ、何か相談事でもぶつんだな、相談事にしちゃ少し様子が穏かでねえな」
事実、人の集まりは無慮二百はたしかのようです。それらのものが、町の方からは来ないで、舟で乗りつけて来て、無言であの草ッ原へ円くなったということは、穏かでない気分が漂う。
例えば、お祭の相談事だとか、お日待の崩れだとかいうものならば、場所柄としても、神社の拝殿とか、お寺の本堂とかを借りたらよかりそうなもの。
かといって、船の団体で遊山保養をしての帰りがけの一行らしくもない。その乗りつけた船には何の飾りもなく、第一、集まった人がおもに中年ものの男で、それが簑笠《みのがさ》こそつけない、竹槍こそ持たないが、いずれも大げさにいえば一道の殺気粛々として、そうしてあそこへ集まってからに、大陽気に歌い出すものなんぞは一人もないのです。
だから米友は、なんとなく穏かでないと感じた時、はじめて、さきほど高札場で読んだお定書《さだめがき》、その色と木理《もくめ》の新しいのがピンと頭へ来ました。
二十
「ことによると、あれがその一味ととうというものではねえかしら」
そうだとすれば、気の毒なことでもあり、危ねえことでもある。うむ、そうだ、お代官とか、御領主とかがやって来ると言ったけな、それを思い合わせてみるてえと、いよいよ何か事がありそうだ。お代官なり、御領主なりというものが、東の方からやって来るという先ぶれと同時に、あの連中が舟で西の方から乗りつけて来る、なんだか気のせいか、そこいらで正面衝突が起りそうだぜ。
そういうことが起らなければいいがなあ。まだそういうことが起りそうだとも何ともきまったわけじゃねえが、どうやら、そうなりそうなあんべえ式だと、おいらの頭へピンと来るよ。万一、事がそうなった日にゃあ大変だからなあ。つまり一揆《いっき》暴動なんだろう、戦《いくさ》の卵と同じわけさ、内乱だね。江戸は江戸で浪人者があばれ廻ったり、貧窮組が起ったり、江州の長浜へ来れば長浜でまた――厄介なものだて、どこへ行っても世話がやける世の中だ――だがおいらはもう知らねえよ、そういちいち人の世話ばかり焼いていた日にゃ、第一こっちの魂が焼け切れちまあな。
おいらあ知らねえよ――
と、わざと横を向いた米友は、再び湖面の方を眺めながら、草の生えない水汀《みぎわ》を少しばかりぶらついて行くと、今の集まった人数はすっかり草に隠れてしまいまして、湖の水がピチャリピチャリと人無き島のような心持のする汀を打っているところを、米友は、遥かに遠くかすむ湾々曲々のながめに飽かず見入りながら、なおブラリブラリとやって行くと、フトその水際に舟を繋いで、切石の上へ蓆《むしろ》を敷いて、釣を垂れている一人の人に出くわしました。その人の風采《ふうさい》を見ると、平形の編笠を被《かぶ》り、肩当のついた黒の紋つきを着て、一刀を傍に置いて、無心に釣を垂れているところは、この辺ではどうも珍しい気分のするおさむらい姿であります。どうも暫くお侍を見なかったような気持がする。この長浜というところは城下町ではねえんだから、商業町だということなんだから、それでまあお侍の数が少ないのだろう、ここでようやく一人見つけ出しは見つけ出したが、これはおさむらいはお侍にしてからが、どこからもお米を貰わないお侍さんだ、以前はどこかの殿様からお米を貰っていた身であろうけれども、今はもうそのお米が貰えなくなっているお侍さんだ。といっても、家督を伜《せがれ》に譲って、お米を貰わなくても楽に養われて行ける身分のお侍さんとも違う、第一、あの笠、あの色のさめた紋附、いわずと知れた浪人者なんだ。
だが、あんなにして悠々《ゆうゆう》釣を垂れているうちは、浪人者も穏かなものだな――
こんなことを米友が見て取りながらも、せっかくこっちの方へ向いた足を、浪人者がいたからといって引返すのも癪《しゃく》だ、まあ、ずいぶん通り過ぎて行ってやろう、だが、せっかくああして静かに釣をしているんだから、言葉をかけることはいけねえ、また言葉をかける必要もねえ、足音だってあんまり立てねえで、静かに釣を垂れている浪人の心境を乱さねえようにして通り過ぎてやるのが礼儀だなあ――と、米友は米友としての礼儀をわきまえて、そうして浪人の背後をすっと通ろうとすると、米友のその遠慮を出し抜いたのは、かえって浪人でありました。
「これこれ子供!」
「え!」
呼びとめられたもんだから、米友が「え!」と言って呼びとめられただけでなく、「これこれ子供」と言って、甚《はなは》だ横柄《おうへい》な言葉で、しかも人を呼びながらこっちを見ないで、自分の釣の方にばかり目をつけているのです。
「どうした
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