。また、苦しくって堪らねえから、村を逃散《ちょうさん》してどこぞへ落ちのびて行くのも罪になるんだ、いてもわるし、動いても悪し、立って退けばまた悪い、百姓というものは浮む瀬がねえ」
と米友がつぶやきました。
十九
こういう高札の文句というものは、もっと昔からあったものかも知れないが、今ここへ掲げられてあるのは、墨の色も木理《もくめ》も至って新しい。高札の文句そのものは、もっと古くから存在していたものにしてからが、ここへ書き出して掲げたのは最近のことに属するというのがよくわかる。従って、最近こうして、事新しく掲揚したということに於て、特にこれを人民の頭へ、相当強く印象して置かなければならない事態が彷徨《ほうこう》しているということが暗示されないでもない。
しかし、米友も、そこまでは観察を逞《たくま》しくしないで、そうしてまた会所の方へとって返そうとすると、ドヤドヤと羽織袴の、町の肝煎《きもいり》みたようなのが、人足をつれて出て来て、通行人をいちいち制したり、道路を片づけさせたりしてこっちへ向って来る、それと米友がぶっつかりました。右の宿場人足は米友を見ると、
「おいおいやっこさん、脇へよっていな、おっつけこれへお代官様がおいでになるよ」
「ナニ? 奴さんだ――お代官がどうしたんだって?」
と、米友が思わず口を突いて出たけれども、宿役も、人足も、米友の米友たる所以《ゆえん》を知らず、いやに気の強い子供だと軽くあしらって、
「御天領から御検地のお代官がいらっしゃるのだ、間違いのないように引込んでいな」
そう言い捨てて、さっさとあまり深く米友をあしらいませんから、米友もちょっと拍子抜けの体《てい》でありました。
しかし、お代官だの、お殿様だのというもののお通りと、米友とは、あんまり反《そり》が合わないのです。そういうもののお通りのために、今日まで、鼻っつらをひっこすられたり、ひっこすりもしたりした例は数うるに暇《いとま》のないほどであります。たとえば、国を出て東海道を東下《あすまくだ》りの道中、また浅草の広小路で梯子乗りの芸当をやっている時も、えらい騒ぎを持上げたことがある。甲州道中、駒井能登守の一行とすれすれになった当時、あの時は上野原の先の鶴川の渡し場で、グルグル坊主にされた。それからまた今度の道中でも再々、お代官やお殿様のお通りと性が合わないのは、道庵もまた御同様。正面衝突も気がきかないから畑の中へ飛び込んで桑の木へひっかかったり、武州熊谷附近通行の際――あの時桑の木が無かろうものなら道庵はどこまで飛んで行ったかわからない、後向きに馬に乗ったりなんぞしてごまかしたのは知っての通りであります。
そこで米友も考えました。どのみち、お通りなんぞは、こっちにとっては性が合わねえにきまっているが、へたに喧嘩をしてもつまらねえことだから、おいらあ、お通りのねえ道を通るんだ――
と言って米友は、自発的にフイと横へ切れてしまいました。
横へ切れてやみくもに走ると水口に突き当りました。
「おやおや、どっちい行っても水だなあ」
と言いながら、その水際まで行って見ると、また別に、
「おやおや」
と繰返さざるを得ませんでした。どっちへ行っても水のはずです、ここは長浜の西の部分で、名にし負う近江の湖水に直面しているところですから、西へ走る限り、どっちへ行っても水なのはわかりきっております。
「うむ、そうだ、これが琵琶湖の片っぺらなんだ、広いなあ」
と言いながら米友も、改めて直面する琵琶の湖水を目のあたり眺めて、その風光に見惚《みと》れました。
見惚れたといっても、ただ、広いなあ、綺麗だなあと舌を捲くだけのもので、眼前に島も見えるには見えるが、どれが有名な竹生島《ちくぶじま》で、どれが沖ノ島で、どれが多景島《たけじま》だか、その辺の知識は皆目《かいもく》めくらなんですから、米友の風景観には、さっぱり内容がありません。
しかし、客観的には内容が無いが、主観的にはです、米友の頭の中には、かなり米友として複雑なる感情が蟠《わだかま》っているのです。
静かな湖面を、じっと彳《たたず》んで見ているうちに――
ですから、近来の米友には、じっと風物を見込むと、知らず識《し》らず考え込む癖がついてきました。
今も湖面の風光に見惚れているうちに、天候には変りがないが、いつのまにか湖面に穏かならぬ舟足がいくつも相ついで、つい米友の目の前の広い草原のところへ、その船の中からぞくぞくと人が集まって、そうしてその広場にかたまる様子でした。最初のうちは空想に捉われて、何とも思わなかったが、そのうちに様子がなんとなく穏かでないものがあるものですから、米友が、
「はて、あんなに舟でぞくぞくと乗りつけて来て、いってえ何をするつもりなんだろう、別に
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