てきました。
そうするうちに柝《き》が入ると、次の幕があきました。
幕はあいたけれども、道庵は見物席へ戻ることはすっかり忘れて、次から次へ舞台へ出て行く役者や太夫さんに頓着なく、居残りの床山であろうと、衣裳方であろうと、世話役であろうと、お茶くばりであろうと、とったりであろうと、誰彼の容捨なく、芝居話を持ちかけているうち、舞台面が進んで、一人行き二人行き、ほとんど楽屋が空ッぽになると、道庵も喋《しゃべ》りくたびれて、ようやく御輿《みこし》を上げようとして、よろよろとよろめき出し、衣裳小道具を入れて来た長持のところへ来ると、さきほどから非常に睡気がさしているので、よろよろとして、その長持の中へ転がり込んだのか、そうでなければ尻餅をついたを幸い、そのまま長持の中へ寝こんでしまうと、そこへ上からフワリと衣裳が崩れ落ちて来て、道庵の身を押しかぶせてしまいました。
一方、平土間で道庵のために空席を守っていた庄公は、小用にと立って行った道庵の帰りが遅いので気が気でなく、諸方を探し歩いたが、まさか楽屋の中でクダを捲いているとは思わないから、人混みの中をうろうろと潜り廻り、しきりに探しまわりましたけれど、ついにその姿を発見することができないで、とうとう幕あきの拍子木を聞いたものですから、幕があいた以上は、きっと元の場席に帰って来るだろうと、元のところへ帰って待っていてみたが、どうしても道庵が戻って来ないので、もう芝居見物どころではありません、幕の半ばにまた飛び出して右往左往に尋ねまわりました。
宇治山田の米友ならば、こういう例には再三出っくわしているから、またかと言って歯噛《はが》みもしようし、その苦い経験から、道庵ひとりをうっかり小便にやるようなことはなかったでしょうが、庄公となると、まだなにぶん道庵扱いに馴れていないところへ、本来、米友ほどの腹《はら》も業《わざ》もある奴ではないから、ついにはいい若い男が尋ねあぐねて途方に暮れ、ワアワア手ばなしで泣き出してしまいました。
十八
長浜の会所へ、両替の使の用心棒としてついて来た宇治山田の米友は、会所の前に暫く待っていたが、今日は何か会所が特別に忙しいことがあると見えて、ラチがあきません。
そこで、気の短い米友としては、少しく焦《じ》れ出してくるのも当然です。じっと待ってはいられないから、その会所のまわりをうろつきはじめました。
会所のまわりを、塀《へい》の隅っこのところまで行ってまた逆戻りをしたり、溝《みぞ》の中に柿の種子が落ちていたり手鞠《てまり》がころげ込んだりしているのを見たりなんぞして、行きつ戻りつしているうちに、まだ埒《らち》があかない。こんどは表通りを少し遠っ走りして、湖の水の見えるところまで行って引返そうとする時、そこに高札場があって、幾つもの札のかけてあるのを見つけました。その高札を片っ端から読んでみますと、その真中の一番大きいのに、次の如く書いてありました。
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「定
何事によらず、よろしからざることに百姓大勢申合せ候を、とたう[#「とたう」に傍点]ととなへ、とたうして、しひて願事企てるを、がうそ[#「がうそ」に傍点]と言ひ、あるひは申合せ、村方立退候を、てうさん[#「てうさん」に傍点]と申し、他村にかぎらず、早々其筋の役所に申出づべし、御褒美として、
とたうの訴人《そにん》 銀百枚
がうその訴人 同断
てうさんの訴人 同断
右之通下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも、発言いたし候ものの名前申出づるにおいては、その科《とが》をゆるされ、御褒美下さるべし。
一、右類訴いたすものなく、村々騒立候節、村内のものを差押へ、とたうにくははらせず一人もさしいださざる村方これあらば、村役人にても、百姓にても、重にとりしづめ候ものは、御はうび下され、帯刀苗字御免、さしつづきしづめ候ものどもこれあらば、それぞれ御褒美下しおかるべきもの也
年月日[#地から2字上げ]奉行」
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米友は、お君に言わせると学者ですから、苦もなくこれを読んでしまって、
「ははあ、一味ととうしちゃいけねえってえんだな、申合せをして村方を立退くのもよくねえてえんだな、それを訴人しろてえんだなあ、訴人した奴には銀百枚を御褒美として下しおかれようてえんだな、なお、その上に、次第によっちゃ苗字帯刀も御免あろうてえんだな」
と言って米友は、高札の表を横目に睨《にら》み、
「一味ととうして乱暴を働くのが悪いのはわかり切ってるが、百姓共だって酔興で一味ととうをするわけじゃあるめえ、何か苦しくって堪らねえことがあるか、そうでなければ、おだてる奴があってそうなるんだろう、それを訴人した奴には御褒美が出るんだ
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