こそくっきょう一、あすこんところが、こう、竹槍をこういうふうに構える型と、それからまた、こう構える型とある。まあ、役者の柄によるものさ。柄の小さい役者は、芸を派手に大きく見せるために、こうなるんだ、だが、柄の大きい役者が、こう持っちゃ損だね。小田の蛙《かわず》の鳴く音《ね》をば……あれから、突込む手練の槍先に……あそこまでのところの呼吸が、お前さんのは、すっかりコツを心得ておやりなすったには恐れ入ったね。なんしろ、竹槍で人を突っつき殺すなんてことは、本来ならば匹夫下郎のやる仕事だあね。まあ、歴史上から言ってごらん、お前《めえ》さん、たとい三日天下にしろ天下の将軍職についた、惟任光秀《これとうみつひで》ともあろうものが、差足抜足《さしあしぬきあし》うかがい寄って、敵の大将の寝首を竹槍で突っつき取ろうなんてえのはあるべきはずじゃあねえんだがね、それがそれ芝居で、作者の働きさ。惟任将軍ともあるべきものが、名もなき土民の竹槍で命を落す悲惨な因縁因果を、それ、主と親を殺した天罰にからませて、趣向を変えてあそこへ持ち込んだところが作者の働きなんだから、演《や》る方もよく心得て、匹夫下郎の真似はしながらも、苟《かりそめに》も惟任将軍というみえとはらとを忘れちゃならねえ。お前《めえ》さんのは、それが相当腹にへえってしているから、俺ぁ少し唸《うな》りましたね」
 こう言われると光秀役者がことごとくよろこんでしまいました。
「はあ、有難えこんだ、わしも、芸事はすべて役どこの性根《しょうね》が肝腎だと思いやして、なるべくはらで見せるようにしてえと、こう思っているんでがんす」
「それそれ、それでなくちゃいけねえ……だが一つお気をつけなさい、あの北条義時は、筏《いかだ》を流し奉るとお前さんお言いなすったが、あれはいけねえ、ミカドを流し奉ると言うようにしなさい。それから、その次の方に面《かお》をしておいでなさるのは、さきほど久吉《ひさよし》をなすった兄さんだね。湯のじんぎは水とやら……あそこが軽い。だが、おめえさんのは少し男ッぷりが良すぎるのが瑕《きず》に玉《たま》だあね、納所寺《なっしょでら》の味噌摺坊主に化け込んで来てからが、こいつはまた光秀よりもう一枚大物の太閤秀吉の変装なんだから、やっぱりそれだけの面魂《つらだましい》を持たなきゃならねえ。面魂といえば、秀吉の面は猿に似ていた、いや秀吉の面が猿に似ていたんじゃねえ、猿の面が秀吉に似ていたんじゃ、という二つの説にわかれて、まだ、どっちとも決定していねえが、それはこの場合、深く問わねえが、面が猿に似ていて、眼光が炯々《けいけい》としていて……そのくれえだから面魂もどこか違ったところがなけりゃならねえ、それだのにお前《めえ》さんのは、剃り立てのきれいな青道心で、それに白塗りの痩仕立《やせじた》てときているから、見物の女の子がやんやとわいたぜ。芸の方にソツはねえが、面のつくりがあんまり綺麗過ぎたね。どだい、お前さんの地面《じがお》が綺麗過ぎるんだろう」
 こう言われると久吉役者がまたよろこびました。たとい面魂は英雄豪傑になっていなくとも、地顔が綺麗で、女連から騒がれたと言われてみると包みきれない嬉しさがこみ上げて来るらしい。
 そうすると、道庵先生抜からず、こんどはみさお[#「みさお」に傍点]役者の方へ向って、
「そこに衣裳をしておいでなさるのは、みさお[#「みさお」に傍点]をつとめたお人さんだね。このみさおという役がなかなか骨が折れる役でな。なんしろ、はらがあって、愁嘆が利《き》いて、主と、夫と、親と、大将と大将の中へ挟まって、義理と人情と、功名と恩愛とを身一つに仕分けなくっちゃならねえ、そのくせこうといってパッとした見せ場もなく、ふまえて行かなくっちゃならねえのだから、たておやまの中でも、底力がなければ持ちこたえられねえ。ところがお前さんはよく役どころを心得て、立役を立てながら場を締めていた黒っぽいところには真実感心したね。一つァまた、チョボがいいからしっくりと呼吸《いき》が合って、何とも言われねえのさ」
 そう言われてみさお役者は恐縮してしまい、
「わしらの芸は、はあ、何でもねえが、太夫さんが引取って下さるから、どうやら持ちこたえられているのでございます」
「それからまた、いちいち役々に就いて言ってみる……」
と、立てつづけて道庵先生が、初菊や、重次郎や、母のさつき、正清といったような役者を上げたり下げたり、それからまた全体に戻って来て、故人虎蔵の型はこうだの、先代宗十郎はどうだの、誰それはそこで足をこう上げたの、ここで鼻の先をこんなにこすったの、こすらないの、というようなことをのべつにまくし立てたものですから、半ば過ぎまで好意と感激とをもって歓迎していた楽屋一党も、なんだか少し変だと思うようになっ
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