やした。どうして本格でげすよ、これなら三都の大歌舞伎へ出したって、ちっとも恥かしいことはねえ。失礼ながら皆さんが、これほどにお出来なさるたあ気がつかなかった。わしも若い時ゃ芝居がでえすきでね、大白猿《だいはくえん》や鼻高《はなたか》盛んの頃には、薬箱を質《しち》に置いても出かけたもんだがね、近頃、江戸も役者の粒がぐっと落ちやした。役者の粒が落ちたんじゃねえ、こっちの眼が肥えたんだという説もあるが、そりゃどっちでもかまわねえが、近頃ぁとんと夢中になりきれるほどの役者が出ねえんでね。だから、一分線香や俄《にわ》か道化師の方が罪がなくて、おもしれえくれえのものなんだが、今日まあこうして御縁があって、皆さんの芝居を拝見させていただきますてえと、どうして、すっかり本格だあね。第一、チョボの太夫さんが確かなもんだ。役者衆だってその通り。それで実ぁ、内心、はじめのうちはね、これほどはやるめえと甘く見てかかったのが拙者の眼の誤り、あんまり皆さんの芸術に感心したもんだから、お礼とお詫《わ》びをかねて、お近づきに罷《まか》り出たというようなわけなんでげす。これゃあ、ほんのお印《しるし》だが、どうか皆さんでお茶うけに召上っていただきてえ。わしゃ、江戸の下谷の長者町で道庵といえば知っている人は誰でも知っている、知らねえものは誰でも知らねえ、至極お人よしの十八文でげす、どうかよろしく」
 こう言って、出店商人に持たせた三蒸籠の今坂を、恭《うやうや》しく楽屋一党へ向けて差出したものですから、楽屋一同が面喰ってしまって、一度は呆気《あっけ》にとられましたけれども、その申し出でたところを一応思い直してみると筋が通っている。
 誰も賞《ほ》められて悪い気持のするものはない、まして素人《しろうと》芝居の一幕も打って見せようという善人たちですから、村のかみさん、娘さんがお世辞にも、あそこがよかったと言ってくれれば有頂天《うちょうてん》になり得る善人たちである。ところがここに現われた旅の人というのは、自分から名乗るところによると、正銘の江戸の本場者で、しかも三都名優の舞台らしい舞台を若い時から見飽きているような口吻《くちぶり》でもある。その本場の江戸ッ児が思いがけなくこう言って、わざわざみやげ物まで持って賞めに来てくれたのだから、楽屋一党が喜ばずにはおられない道理です。
 まず、チョボ語りの太夫さんの源五郎殿が、調子を合わせていた三味線をおっぽり出して道庵の前へ飛び出して来ました。
「これはこれはようこそ、まことにはや、御親切さまの至りでございやすで、はあ、未熟なわしらが芸事を、それほどに聴いておくんなさる御親切、何ともはや、忝《かたじ》けねえでございます。お目の高えお江戸の本場の旦郷衆にお聴かせ申すような芸じゃごぜえませんが、そうまでおっしゃっていただいてることがはや、わしゃ一生の誉れでございまさあ。どうぞこちらへ、なお、どうかゆっくりごらん下されやして、悪いところは幾重にもお手直しをお願い申します。さあさあ、どうぞこちらへ……」
 下へも置かぬもてなしぶりでございますから、道庵もまたいい気になりました。
「それじゃ、まあ、ごめん下せえまし、わしも若い時分は江戸の三座の楽屋へ入り浸って鼻高でも、よいみつ[#「よいみつ」に傍点]でも、みな贔屓《ひいき》にしてやったものさ」
と言って道庵、腮《あご》を撫でながら、太夫さんのすすめてくれた舞台用の緞子《どんす》の厚い座蒲団《ざぶとん》の上に、チョコナンとかしこまりました。
 ずいぶん人見知りをしないお客様だとは思いながらも、なにしろ田舎《いなか》でも素人芝居の一つも打って見せようという通人揃いだから、かえってこの人見知りをしないお客様のさばけ方に恐悦し、それに、賞められたのは単にチョボの太夫さんばかりではない、一座の芸術すべてに感心して、そうして総花《そうばな》として、今坂の三蒸籠も奮発しようというくらいだから、一座上下みんないい心持で、道庵に好意を持たないのはありません。ですから、次の幕の面《かお》にかかっているのも、前の幕の落武者も、みんな頭を下げるし、言いつけられないのに、お茶よ、煙草よと、もてなし方が尋常ではありません。
 この辺で道庵も引きさがってしまえば無事なんですけれども、どうしてどうして、そんなことでおさまるくらいなら、今坂の三蒸籠も自腹を切るはずがない、忽《たちま》ち今度は高綱が出る役どころの親玉を見つけると、
「や、親方、おめえさんだね、いま光秀をおやりなすったなあ。結構ですね、ありゃ、梅玉《ばいぎょく》の型だろうが、わしに言わせると、あそこはやっぱり高麗屋《こうらいや》で行きたいねえ。必定《ひつじょう》――ひさよし――上方の方の役者は、えてこういう眼つきをして、面《かお》で芝居をしたがる。しのびいる
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