庵が一僕を召連れて、ほくほくとこの柏原の宿はずれを歩いている途端に、大へんなものに出くわしてしまいました。さては草津を要していた三ぴん連の先陣が、早くもここへ廻ったか――そうではない、後ろから追いかけて来る人の声――
「サアサア、みないじゃござい、みないじゃござい、コレコレ作兵《さくひょう》ヤイ、太郎十、どうでやどうでや、よべから役当てて置きよるに、何していよるぞ、さあさあ、いかまいか、いかまいか」
「ヤレ、コリャ、いんま、いかずいかずと言いよるに、おこずるな、おこずるな」
「ええ、はようやらまいか、その頭どうじゃ」
「はらの煮える、いんま幕があいて、みがとが出よるところじゃに、誰なと代りに出さずと思うても、おぞい奴等じゃ、どやつもこやつも、今こまいとぬかしよる」
こう言って、道庵のあとから駈けつけて来るものがありましたから、道庵がそれをふり返って見ると、ところの男、もう一人の女の手を引きずって駈けて来る。様子が変だから、なおよく見ると女の鬘《かつら》をかぶって、顔はところまだらのおしろいをベタベタとつけている在郷衆だ。そのあとから弥次馬がワイワイ駈けて来る。その体を見ると道庵先生が早くもさとって、
「やあ、来たな、どこぞ近いところに素人《しろうと》の芝居があるぞ、こいつぁ一きり見ざあなるめえ」
と言って、忽《たちま》ちその輩《やから》にくっついて駈け出しました。
ほどなく、鎮守の社へいって見ると、歌舞伎の柱を押立てて緞帳《どんちょう》をつり、まわりへ蓆《むしろ》と葭簾《よしず》を張りめぐらしてある。木戸は取らない、野天の公開ですから道庵もうれしがって、見物の中へ割込んで、早くも相当の席を占めてしまいました。
まもなく、場の内外は立錐《りっすい》の余地もない景気、やがてカッチカッチと拍子木が鳴る。
「東西東西」
手拍子パチパチ。
「御酒二升、目《め》ざし鰯《いわし》十連、浅畑村|若衆《わかいしゅ》より馬持ちの田子衛門へ下さる」
手拍子パチパチ。
「そば粉三袋、牛蒡《ごぼう》十|把《ぱ》、六はら村の長徳寺様より西町の芋七へ下さる」
手拍子パチパチ。
「半紙十帖、煮付物一重、三太郎後家様より長松へ下さる」
手拍子パチパチ。
「榾《ほた》三束、蝋燭《ろうそく》二十梃、わき本陣様より博労《ばくろう》の権《ごん》の衛門《えもん》に下さる」
手拍子パチパチ。
拍子木カチカチ。
「東西東西、このところ太功記十段目尼ヶ崎の段、始まりさよカチカチ」
これを聞くと道庵が無性《むしょう》に嬉しくなって、
「ありがてえ、これだから旅は止められねえ」
十七
道庵先生は、この太功記十段目を極めて神妙に見ておりました。道庵先生とても必ずしも脱線とまぜっかえしを本業としているわけではなく、衆と共に楽しむ場合には、強《し》いてことを好んで多数の静粛を破るようなことはしません。
そうしているうちに、この一座が、太功記十段目一幕をとうとう本行通りこなしてのけてしまったのには、さすがの道庵先生が舌を捲きました。案外の上出来、それに上方《かみがた》に近いせいか、第一、チョボが確かだし、一座の役者の仕草《しぐさ》も台詞《せりふ》も一応、格に入っておりました。
道庵は感心の余り、ひとつ賞《ほ》めてやりたいものだという気になりました。もう幕が下りてから賞めたところで仕方がない、まあ、この次の幕に近江源氏があるらしいから、一番江戸ッ児張りにうんと賞め言葉を投げつけてやろうと意気込んでいたが、幕間《まくあい》がかなり長い上に、道庵もちょっと小便を催してきましたから、座席のところを庄公に頼んで置いて、人波を分けて、便所の方へと出かけて行ったのですが――その帰り途のことです、葭簾張《よしずば》りのスキ間から楽屋が丸見えだもんですから、道庵が覘《のぞ》き込むというと、そこで在郷の役者連が衣裳、かつらの真最中で、それをお師匠番が周旋する、床山《とこやま》がかけ廻る、その光景はかなり物珍しい見物《みもの》でした。それを見ると道庵先生がムラムラと病気が萌《きざ》したのは、どうもやむを得ないことです。今まで見物の最中とても、瓢箪《ひょうたん》に仕込んで来た養老の美酒をチビリチビリとやっていたのですから、かなり廻っているところへ、こうして物珍しい楽屋裏を見せつけられたのでは腹の虫がおさまりっこはないのです。
そこで道庵先生が、ちょっと人混みの中へ姿を隠したかと思うと、今坂餅《いまさかもち》を三|蒸籠《せいろう》ばかり出店商人に持たせて、いけしゃあしゃあとして再び楽屋口へ乗込んで来ました。そうして世話役に向って言うことには、
「わしゃあ江戸者だがね、上方見物の途中なんだがね、はからずこの地へ来て皆さんの芸術を見せていただきやしたが、正直感心いたし
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