「一人の夫を愛しきれない妻――一人の妻を愛しきれない夫――つまり、それを世間でいう放蕩のはじまり、乱倫の起りときめてしまっていますから、すべての悲劇がそこから起るんですが、考えてみればばかばかしい話です、本来、自然に出でなければならない愛情というものを、強《し》いて追いかけようとするから、そんなばかばかしいことが起ってくるのです。好きである間は夫婦であってよろしい、いやになれば、夫婦なんていう形式をぬいでしまいさえすれば何でもないことではありませんか。夫婦という形式を、お友達という関係として見れば、何のことはございません、その時々によって無制限であり、近くもなり、遠くもなるべきお友達というものを、生涯一緒に引きつけて置かなければならないはずもなし、また、そんな煩《わずら》わしいことをしたいと言ってもできるものではありません」
「だがなあ、男女の間のことってものは、そう単純にはいかんものでなあ、一方の愛が衰えても、一方の愛はまだ盛んなこともあるですからなあ。つまり、未練というものがあるものでな」
「その未練とか、嫉妬とかいうのが一番いけないんです、わたしの作ろうとする理想国では、そういう場合に於ける未練と嫉妬とを、厳重に禁止する、またそういう場合は極めて自由|恬淡《てんたん》であるべきように、子供のうちから教育して置きたいと思います」
「なるほど――子供のうちから、異った習慣の社会に置いて、異った教育をして置けば知らぬこと、現在このままでは、好きな女が自分に靡《なび》かぬ時、自分にそむいて行こうとする時に起る悲劇をどう扱いますか、武力か、金力か、ともかく、お前さんの言う強力が、そんなのをどう扱うか聞きたいものです。もう少し露骨に例をとって言えば、自分の女房が不義をしたとか、または亭主が女ぐるいをして方図がないとかいう場合の、あなたの王国での制裁方法はどうなんですか」
「不義をした女房――その不義ということが、いわゆる世間の不義と、わたしの国の不義とでは解釈が違うかも知れませんが、仮りに世間の例に従ってみましょう、刑罰として殺すということは、わたしの国では許さないつもりです、また他国へ追放するということも、未解決の延長になるだけのものですから、そういう場合には極めて気分安らかに、一方が一方を離れてさえしまえばよいのです、未練も残さず、嫉妬も起さずに――離れることを好まなければ、やはり同じ生活をしていながら、お互いともに絶対的に許してしまうのです」
「ははあ、そういうことができますかね、現在、目の前で自分の女房が、自分以外の幾多の男に許すのを、平気で見たり聞いたりしていられるものですかね」
「わたしは、それができると思うのです――観念の持ちよう一つでできなければならないと思うのです、現在それが、片一方だけには完全に行われて、誰もあやしまない程度に許されているのですから……」
「そんなことが許されていますかね、自分の最愛であるべき女房が、相手かまわず不義をしてもいいと言って、ながめていられるような社会が、現在のこの世界にありますかね」
「だから、片一方だけと言ったではありませんか――片一方というのは、男の側にだけということなんですよ、男の方は、現在の妻の目の前で、どんな不義をしても通っているし、通されているのです、その点に於て、女は嫉妬深いというけれど、実は寛大至極なんですね、早い話が、わたしたちがこんど新しく求めて種を蒔《ま》こうとする理想国の地面は、昔京極家の城跡であったということですから――ひとつその京極家から出立しての実例について見ようではありませんか」
「なるほど」
「このお雪さんという子が仮住居《かりずまい》にしているところに、大きな松の木があるのです、わたしはそれを見ると、あの辺をどうしても松《まつ》の丸殿《まるどの》と名をつけてみたくなりました。御存じでしょう、松の丸殿というのは太閤秀吉の御寵愛《ごちょうあい》の美人の一人なのです。あの人は、或る城主の妻でありましたが、それが囚《とりこ》となって秀吉の御寵愛を受ける身になったのです。お妾《めかけ》ではないそうです。太閤には五妻といって、ほとんど同格に扱われた五人の夫人がありましたことは、あなたも御存じでしょう。北の政所《まんどころ》とか、淀君《よどぎみ》とかを筆頭として、京極の松の丸殿もそれに並ぶ五妻のうちの一人でした。一人の男に仮りにも正式に妻と呼ばれるものが五人あって、それがおのおの一城を持って、一代を誇っていたのです。そのくらいですから、それ以外にあの秀吉の征服した女という女の数は幾人あったか知れません――と想像もできますし、また物の本を読めば、相当に実例を挙げて数えてみることもできるのではありませんか。甚《はなはだ》しいのは、宿将勇士たちを朝鮮征伐にやったその
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