十三
「たとえば……ここに、その理想国のうちに一人の我儘者が出たとします、そのものが男であったとして、仮りに、その男が同じ楽土のうちの一人の女を恋したとしましょう、その結果はどうなるのです」
「わたしたちは、恋愛の自由を絶対に許すつもりでございます」
「恋愛の自由……然《しか》し、その恋愛が完全性を帯びなかった時はどうです、つまり、一方だけに恋愛があって、一方にそれが無かった時はどうです」
「相愛しないところに自由は許されませんね」
「ところで、問題はそれからです、許されないその恋愛を強行したものがあった時は、どうします、つまり、最初の例の楽土のうちの一人の男が一人の女を愛してはいるが、女がその恋に酬いなかった時、男が淡泊に諦《あきら》めて引下れば問題は無いのですが、そうでなかった時、当然、暴力が発動される、そうして女が力に於て弱くして、その暴力に反抗しきれなかった時に、その結果はどうなりますか」
「それは仕方がありません、その時は、女は死を以て身を守るか、そうでなければ男の力に服従するのです、同様の事情は、女が積極的である場合にも許されなければなりません」
「ははあ、してみると、あなたの国もやっぱり暴力を是認するのですな、征服を認めるのですな」
「そうですとも、力が大事です。力というのは、腕の力ばかりではありませんよ。絶対の自由を許すところには、絶対の力がなければならないのです――そうして、その力というものは、非常の時は武力で、平和の時は金力なんです」
「だが、武力も、金力も、如何《いかん》ともする能《あた》わざる力のあることを認めませんか」
「そんな力はありません、あるように見えましても、みな、武力か金力が持つ変形なのです」
「ですが――たとえば、いま女のことで例をとってみましたから、もう一つ、仮りに女の貞操というものなんぞはどうです」
「貞操――みさおですね」
「そうです、たとえばです、女が愛する夫のために死を以て貞操を守るというような場合に、武力や、金力が、これをどう扱いますか」
「貞操ですか――貞操なんていうものが本来、わたしにはよくわかっていないのです」
「ははあ、そうしますと、良家の夫人も、遊女おいらんの類《たぐい》も、同じようなものなんですね」
「え、え、本来同じ人間ですね、一方は一人の夫を守るように生みつけられているし、一方は多数の客を相手にするように出来ているだけのものなんでしょう。一人の夫を守らなければならないようにさせられている者が貞女で、多数の男を相手にするものが不貞女とは断言できません。良家の夫人と言われるものでも、性格的にずいぶんイヤな女があり、遊女おいらんの類でも、性格的に立派な女があるものです。貞操なんていうものの本質を何だかわかっていないくせに、世間|体《てい》だけを守って、内実は堕落しきっている良家の夫人というのがいくらもあります、それからまた、境遇さえ改めてやれば、立派な貞女になりきる遊女がいくらもありますね――わたしは女を見るに、貞操なんぞをそう勿体《もったい》ない標準にしたくはないと思います。もともと、貞操というものは、一定の人を、一定の人に押しつけたり、与えきったりしようとする圧制から起った人間の勝手な束縛なのです。しかし、昔はその圧制も束縛も、社会生存のために必要でありました点は認めますけれども、今ではその圧制と束縛が、人間を使用するようになりました」
「そうしますと、女の貞操というものは、無条件に解放していいのですか」
「そうです」
「では、女という女はみな、遊女にならなければならない道理ですね」
「いいえ、違います、遊女は操《みさお》を売るのです、解放というのは売却することではありません、また、わたしたちの社会では、売ることの必要を認めないのです、男も女も独立して生活が与えられる保証が立てば、何を好んで売りたがるものがありましょう――縁あれば会い、縁なければ去るだけのものです」
「なかなかむずかしくなりましたが、それはそうとして、かりに道義的に貞操を認めないとしても、感情的に汚《けが》らわしい女と、汚らわしくない女との区別はありましょう、そうして、仮りにあなたが男であって、どちらかを選ぶとすれば、それは無論、汚らわしいものよりも、汚らわしくないものを選ぶことでしょう。最初から一人の男を守り通してくれる人と、誰でもおかまいなしに相手にする女と、どちらを選ぶかということになれば、あなただって、それはきまっているでしょう。それをもう少し実感的に言ってみるとですな、あなたの妻が、あなた一人を愛してくれるのと、妻でありながら他の男に許すという女と、どちらを選びますか」
「そんなことはお尋ねになるまでもありませんよ」
お銀様はツンとして、つき戻すように竜之助に向って答えました、
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