あとで、いちいち留守の奥方を呼び入れて閨《ねや》のお伽《とぎ》を命じたということが、事実として信ぜられているではありませんか。それほどなのに、誰も太閤の乱倫没徳を咎《とが》める人がない。力というものはそれです。力さえあれば、男は幾人の女を同時に愛しても善い悪いは別として、事実が許すではありませんか。それが女には比較的――というよりは、絶対的に許されないと見られるまでのことなのです。けれども、男に許されて、女に許されないという道理はないはずです、要するに力の相違なんですから、その力がありさえすれば女といえども、男のした通りのことをして、やはり道徳的に善い悪いということは問題外に置いてでございますね、力がありさえすれば女だって、それがやれないことはないのです」
「そういう理窟になるね。しかし、女の方にそんな実例がありますか」
「ありますとも、唐の則天武后《そくてんぶこう》をごらんなさい」
「うむ、則天武后ですか」
「歴史家という人たちは、その人たちの支配されている時代の尺度で歴史を書くものですから、自然、人間の規模を見損なってしまうことが多いのです、則天武后を、淫乱の、暴虐の、無茶の、強悪の権化《ごんげ》のようにのみ、歴史の書物には写し出されていますけれども、そう暴虐の、淫乱の、無茶な人に、いつまでも人心が服しているはずはありません、たとい一時の権勢はありましても、長く人気を保てるはずはないのに、あの人は大唐国の王座をふまえて少しもゆるがさず、好きなという好きな男は無条件に自分の性慾の犠牲として、或いは弄《もてあそ》び、或いは殺していながら、それで八十歳の天寿をまで保ち得たということは、非常な力を持った人でなければならないはずです、ああなると力というよりも、一種の徳と見なければなりません」
「ははあ――力は、すべての道徳の上の道徳だな」
と竜之助がうそぶきました。
十四
お銀様は、さほど昂奮しているとも見えないが、その論鋒はいよいよ衰えないで、
「力は即ち道徳と言っても少しも差支えはないのです。世間では、道徳を一つ一つの型に拵《こしら》えてしまっていますから、小さいものは当嵌《あては》まりますが、大きくなると、その型に入れきれなくなります、その場合になって、不道徳だの、乱倫だのと、目を三角にして騒ぎ廻りますけれども、自分たちの型の小さいことには気がつきません、ただ事実だけの進行を如何《いかん》ともすることができないでいるのが痛快とは言わないが、かえって自然なんですね。珊瑚《さんご》の五分玉には、針で突いたほどの穴があっても瑕《きず》は瑕に相違ないのです、五分玉としての価値はもうありませんが、この胆吹山に、一丈や二丈の穴を掘ったからとて瑕にもなんにもなりません、従って山のねうちに少しも関係はないのです、それを世間が同じように見るから、そこで狂乱がはじまるのです。裏店《うらだな》のかみさんたちが御亭主の胸倉《むなぐら》をとるつもりで、太閤の五妻を責めるわけにはゆかないのです。ですけれども、道徳というものは差別があっては道徳の権威がないと、もう少し若い時には、わたしたちでも、ひとり腹をたてたものです、裏店のおかみさんが間男《まおとこ》をして悪ければ、太閤秀吉が人の女房を犯していいという道徳はありますまい。それが許されているのは片手落ちなる強者の道徳――こんなことをわたしも、もう少し昔はヒドク憤慨してみた一人なのですが……」
「してみれば、力のある奴は、力一杯何をしてもいいんだな」
「そうですとも、力いっぱいに仕事をさせれば、きっと人間は、この世を楽土にさせ得るものなのです、型の小さい人間が、強者の力の利用を妨害するから、それで人間が伸《の》しきれないのです」
「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。天は人間に生みの苦しみをさせようと思って、色だの、恋だのという魔薬をかける、人間がそれにひっかかって親となり、子を持つようになったらもうおしまいさ。生めよ殖《ふ》やせよだなんて言ってるが、ろくでもない奴を生んで殖やしたこの世の態《ざま》はどうだ。理想の世の中だの、楽土なんていうものは、人間のたくらみで出来るものじゃない、人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」
「あなた一流の絶滅の哲学ですね――哲学だけならいいけれど、あなたは実行力を持つからたまらない」
「ふ、ふーん、実行力――知れたものだ」
と、竜之助が自ら嘲《あざけ》りました。そうするとお銀様もツンとして、
「お気の毒さま、あなたに限ったことはありません、どんな絶滅の哲学者が現われても、戦争が続いても、流行病がはやっても、人間の種はなかなか尽きませんよ」
「困ったものだ、ろくでもない奴が殖
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