落着きぶりを示しているが、お雪ちゃんの不安は去らない。
「お雪さん――」
そこへまた耳許に、憎らしいほど落着いた、これは人の声、女の声。眼を上げて見ると、お銀様が枕もとに立っています。そのお銀様も白の行衣《ぎょうえ》を着て、白の手甲脚絆《てっこうきゃはん》、面《かお》だけはすっかり白衣で捲いて、その上に菅笠、手には金剛杖――そうしてお雪ちゃんの枕許に立って呼びかけたその姿だけを以て見れば、決して、これがお銀様だとさとれるわけではないのですが、その声でお雪ちゃんはさとって、起き直っていずまいを直さなければならない思いがしました。
九
「さあ、お雪さん、お山へ登りましょう」
「まあ、この夜中に……」
と、お雪ちゃんが呆《あき》れました。
けれども、それを許すお嬢様ではない。
否やを言わせる余地のない圧迫を感じてみると、起きてこの人と同じ扮装《いでたち》をして、待機の姿勢をとらなければならないことを余儀なくせられました。
「ホ、ホ、ホ、夜中なればこそです、胆吹夜登りといって、胆吹の山には夜登ることになっているのです」
「ですけれども……」
「あなたは怖がっていらっしゃる。なに、怖いことがあるものですか、見た目では恐ろしい山のように見えますけれども、登って行く間の美しさでは、日本国中、こんな美しい山はないとさえ言われているのではありませんか」
「そんなに美しい山でございますか」
「美しい山ですとも。世間並みの萩や、すすきや、桔梗《ききょう》、女郎花《おみなえし》の秋草がいっぱい咲いている上に、この山でなければ見られない花という花がたくさんに咲いています。胆吹の百草と言いますけれども、百草どころではありません、五百草も、千草も、三千草も、花という花はみんなこの山にあるのです。見た目の美しい百草の中には、何とも言えないよい香いを不断に放っているものがあります、その香いと色の中を、ちょうど夜が明ける時分に、わたしたちが歩いて行くことができるのですから、こんな楽しい山登りは、ほかにはございません。あなたは、白馬ヶ岳のお花畑を御存じでしょう、あれよりも、この胆吹の山の花の路の方が美しいのです。白馬のお花畑は、美しいけれども、冷た過ぎ、清くあり過ぎます。ここのはほんとうに花野原……花という花がみんな、人間味を以て咲きそろっているのですから、同じ美しさにも温か
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