味がありますのよ」
 そう言ってお銀様から遊意をそそのかされても、お雪ちゃんは少しも、誘われる気にはならないで、かえって命令のように響きます。百花が絢爛《けんらん》であろうとも、香気が馥郁《ふくいく》であろうとも、温か味があろうとも無かろうとも、白馬ヶ岳のお花畑のあくまで清く、あくまで冷たいのには心を惹《ひ》かれたが、ここでは何と言われても、その気になれないのは、多分お銀様その人の口から言われたというばかりではなく、さきほどの大風と、それに続いての弁信法師と大鷲との印象が、どうしてもお雪ちゃんをして、この胆吹の山の山道を懐しがらせるようにしないものでしょう。その難色を見て取ったお銀様は、附け加えて言いました、
「それから頂上へ行くと、とてもながめがまた日本一です、北の方の高山という高山が、みんな眼の中に落ちて来ると共に、南の平野も、西の京洛も、それにあの通り日本一の大琵琶の湖が、眼の下に控えているのですもの、風景の好きなあなたが、それを好きになれないはずはありません。文永の昔、胆吹の弥三郎という山賊がこの山の頂上に腰をかけて、琵琶湖の水で足を洗いました、その時に湖水を取りひろげようとして土を運びましたが、その土の畚《もっこ》の中からの落ちこぼれが、あの竹生島《ちくぶじま》や、沖ノ島になって残っているのだそうです。胆吹の西の麓、姉川を渡ったところにあるあの七尾山も、弥三郎がつき固めた土くれだということです。それからまた東の麓には、俗に泉水といわれているところがあって、そこには千人の人を容れられる洞穴《ほらあな》があります、それが弥三郎の住居であったといわれているけれど、わたしたちは、もそっと奥へ突き進んで、人の全く見られないところを見ることができるのです」
 お銀様は、風景の次に、伝説を以て、お雪ちゃんの想像心に訴えて、これが遊意をそそろうとしたが、それでもお雪ちゃんの気の進まないのをもどかしがって、
「おいやですか」
「いやではありませんけれども……」
「あの大風の中を、弁信さんでさえ登って行ったではありませんか、それを意気地のない、お雪さん、あなたは越後の白馬ヶ岳や、杓子岳《しゃくしだけ》までも登ったではありませんか、好きな人と一緒ならば、畜生谷を越えて、加賀の白山までも登りかねないあなたではありませんか、わたしと一緒ではおいやなのですか」
「そういうわけではあり
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