ろからバタバタと駈け出した大小二つの人影がある。そのあわてて駈け出したところを見ると、まさしく前に駈け出した大男を追いかけて行くのだということがありありと分ります。
ところが、前に駈けて行く大男は、身体こそ頑丈《がんじょう》そうだが、駈け方は存外不器用で、何か河原の石ころか、杭《くい》かにつまずいて仰向けにひっくりかえった状《ざま》は、見られたものではありません。そうすると、それを幸いに後ろから追いかけて来た大小二つの人間が、いきなりそれを取押えて組伏せにかかりました。そこで、大男がはね起きようとする、二人が必死と抑え込もうとする、三箇が川の岸で組んずほぐれつの大格闘を始め出したのです。
遠眼鏡で委細を見ていた田山[#「田山」は底本では「田代」]白雲は全く呆れてしまいました。いいかげん長い間お客をおっぽり出して、焦《じ》らせて置きながら、ようやく姿を見せたかと思うと、こんどはまたお客の眼の前で、素敵なロケーションをおっぱじめてしまった。船頭は舟を操《あやつ》ればよろしい、船頭がロケーションをして見せることはふざけ過ぎている。また、こちらに待焦《まちこが》れている客人は、ロケーションの余興を船頭に向って要求はしていない、船頭は早く船を出すようにしてくれればいいのだ。白雲のように最新の機械はもってはいないけれども、待ちくたびれたすべての客は、この船頭小屋から飛び出して来た三人の人影によって行なわれつつある対岸の大格闘を、ありありと肉眼で見て、またわき立ちました。
「何してやがるんだ、人をさんざん待たせて置きながら、自分たちは勝手な芝居をしていやがら、フザけた船頭だ、なぐっちまえ」
江戸ッ児なら、こんなに言うでしょう。そうかと言って、ここからでは弥次も飛ばせず、退屈まぎれに事のなりゆきを遠目に眺め渡して、むだな力瘤《ちからこぶ》を入れるばかりです。
そのうちにむっくりはね起きたくだんの大男、もう立ち直ったと見ると、大変な馬力で両方からとりかかる大小二つの、たぶんこれは船頭親子であろうと見られるところの二つを、むしろ返り討の体《てい》で突き飛ばし、はね飛ばし、その暴れっぷりの不器用ながら猛烈なることは当るべくもありません。あとから追いかけた船頭親子は、あべこべに突きまくられ、はね飛ばされ、蹴倒されつつ、ついには大声をあげて救いを求むる体です。
それを見ると、田山白雲、急に気がついたことがあると見えて、心急いだ人が電話口でお辞儀をするように、遠眼鏡を一層深くのぞき込んで、
「ア! ウスノロ! うすのろ[#「うすのろ」に傍点]だ、あいつだ……」
と、下にいる待合客のすべてがびっくりしたほどに一つの叫びを立ててしまいました。
事実、白雲が絶叫したのも無理がありません。そう思って見ると、ことに遠眼鏡という視力の飛道具を使用して見れば、いよいよそれはそれに相違ないことで、眼の玉の碧《あお》いことはわからないが、髪の毛の唐もろこしの房のように赤いことが、はっきりとわかってくる。
このウスノロの力の強いことは、さすがの白雲も一時はタジタジとさせられた体験がある。なかなかかいなでの老人子供の手に合うものではない。ああして立て直して返り討の形になり、二人に悲鳴を挙げさせているのも無理のないところだが、それはそうとしてあいつをここで見ようとは思わなかった。もとよりあいつを探しに出た目的の旅ではあるが、こんなところで、あんなことをしているあいつを、こうして発見しようとは思わなかった。
何のためにあいつ、こんなことをしているのだ――それはわかっている! というのは、あのウスノロがこういうことをやり出すのは今に始まったことではない、あいつは本来がウスノロであって、ジゴマでもなければ、ギャングでもないのである。強盗殺人をしようの、詐欺横領をしようのというほどのたくらみはあいつには無いのだ。あいつが人を犯し、人から咎《とが》められることのかぎりは食《しょく》と色《しき》との外に出ないのだ。食といったところで、あれのは、いよいよ飢えに迫って堪えられなくなったところに至って、初めてノコノコと人里へ出て来て、その当座の飢えを凌《しの》ぐだけのものをかっぱらって来る以上の仕事はできないのだ。それから色、すなわち性慾のことだって、あいつのは、なにも特に巧言令色に構えこんで、色魔だとか、誘惑だとかいう手段で行くのではない、眼の前へ異性の女の肉のかおりがうごめいて来る時に、ついついたまらなくなってかぶりつくまでのものだ。
今の事情が、またそれを証明させる。あいつ無闇に親船を駈落《かけおち》して来は来たものの、本来あの兵部の娘にしてからが、そんなに思慮の計算のあるやから[#「やから」に傍点]ではない、人の金を持ち出して、二十日余りに四十両の五十両のと使い果してから、この世の名残《なご》りとしゃれるようなしゃばっけも持ち合わせてはいない。ただ盲目的に着のみ着のままで飛び出して来たのだから、行当りばったり、行詰るにきまっている。行詰った時、最初の要求は、彼等にとっては死でなくして食である。少なくとも、ウスノロの奴め、雪時の熊のように、どこかへ食物をあさりに出るに相違ない。食物を人里へあさりに出たが最後、眼の色、毛の色の変った珍客――昔二ツ眼のある人物が、見世物の材料を生捕るために一ツ眼の人の島へ押渡ったところ、反対に二ツ眼のある人間が来たから取っつかまえて見世物にしてやれ、と言ってつかまってしまったというのと同じ運命に落つるにきまっている。白雲が最初、七兵衛おやじの影を捕えるのはかなり難儀であろうが、ウスノロの方は存外|手間暇《てまひま》がかかるまいと安く見ていたのが的中しました。彼は今、飢えに迫ってあの船頭小屋の中へ何か食物を漁《あさ》りに来たのだ。そして船頭親子に見つかってあの醜体だ。白雲は自分の想像の図星を行っているウスノロめの行動が、むしろおかしくなって吹き出したいくらいに感じたが、しかし、彼処《かしこ》で争っている三人の御当人たちの身になってみれば必死の格闘である。ことに気の毒なのは、この一種異様な侵入者を、ここまで追跡して来て、せっかく取抑えたかと思えば、かえって逆襲されて、一歩あやまると、自分たちの生命問題になる立場に変って、狼狽《ろうばい》しつつ、後退しつつ、必死に争っている体を見ると、白雲は気の毒でたまりません。
白雲以外の舟を待つ人々は、事の内情も、目色、毛色も一切わからないから、どちらへどう同情していいかわからないけれども、どちらにしても、あの格闘の幕が終るまでは、われわれは舟に乗れないのだと、半ばヤケ気味に諦《あきら》めつつ、なお八分の興味をもって右のロケーションを眺めておりました。
そのうちに、突きまくられ、追いまくられた船頭親子は、無残にも足を踏みすべらして、重なり合うように北上川の川の淵の中へ落ち込んでしまいました。
「アッ」
と、こちらの岸で見ていた一同が声をあげて、この無残な船頭親子のドン詰りに同情の叫びを挙げましたけれども、この不幸が、実はかえって力の弱い船頭親子には幸いでありました。というのは、力限り陸上で格闘を続けていた日には際限がない、際限がありとすれば、暴力に於て格段の差ある親子は、あの巨大な暴漢のために、徹底的に、致命的に叩き伏せられて、再び立つことができないようにまでさせられてしまうにきまっている。それが川という別管区域へ落ち込んでしまったために、相手はちょっと追窮の機会を失ったのだから、この二人の親子が水練を心得ている限り――船頭のことだから、むろんそのたしなみはあるに相違ない――また、何か水中に人を刺すような木石の類が存在していない限り、致命的の怪我からはまず遁《のが》れられるものと見なければならない。
果して、追究された船頭親子が水中に落ち込んだのを機会に、むしろそれは落ち込んだというよりは、こちらが叩き込んだと見るのが至当な攻勢であったけれども、そこまで来ると、もうこれ以上働くことよりも、逃げることの急なのが自分の立場であるということにでも気のついた如く、倉皇《そうこう》と取って返し、最初倒れた際に、そこにおっぽり出した包みもの、それは、その中のものは白雲の遠眼鏡を以てすれば、当然なにか船頭小屋の中に有合わせた、当座の食料品であらねばならぬところのものを取り上げるや、それを拾って、不器用な駈けっぷりで、こけつまろびつ川下の方へにげて行くのであります。
「やれやれ、これでどうやら一巻の終りになったが、かわいそうに、たたき込まれてお陀仏《だぶつ》になったらしい船頭親子――」
と言って、待ちくたびらかされたこちらの旅人たちも、改めて同情の眼を以て見る瞬間に、早くも船頭親子は、落ち込んだところから十間ばかり上流へポカリと浮き出して、二人とも河原に立って、着物を絞りながら馬鹿な面《つら》をして、逃げて行く大男の後姿を見送っている。
やれやれ、これでまあ、こっちも助かった、船頭親子も怪我がない限り、おっつけ舟も廻って来るだろう、と旅人どもは、市《いち》が栄えたような心持で、げんなりしたが、白雲ひとりだけの興味は、決してそれで尽きたのではありません。更に一層の興味をこめて遠眼鏡の筒を、逃げて行くウスノロ氏の後ろへ向けました。
こけつまろびつ走りつづけたウスノロが、ほどなく蘆荻《ろてき》の生いしげったようなところへ来ると、その蔭からパッと飛び出して、いきなり抱きつくようにウスノロ氏を迎えたものがあります。
「あれだ!」
白雲は、その者が兵部の娘もゆる嬢であることを直ちに認めました。
「ははあ、あいつら、こんなところに巣をくっていたのか、本来、ふやけた奴等ではあるが、それにしても水びたりになって隠れているのにも及ぶまいに、どこまでも変っている、どうするか見遁すことではないぞ」
と、見ているうちに、二つの影は相《あい》擁《よう》して、その蘆荻の中へ没入してしまいました。
「ちぇッ、やっぱりあの水の中の蘆荻の蔭で二人がうじゃじゃけている、しようももようもない奴等だ」
白雲は、二人の没入した蘆荻の中を、苦笑いしながらなお眼鏡を外《はず》さないで見ていると、やがてその間から、すうっと一隻《いっせき》の小舟が漕ぎ出されたのを見て、
「ははア、よしきりじゃあるまいし、水の中にうじゃじゃけていたというわけでもない、奴等、舟をあの蔭につないで隠れていたのだな。そうして兵部の娘だけが舟に残っていて、ウスノロが食料品徴発と出かけたものなんだ。そうして、多少の食料にありついたから、これから河岸《かし》を変えようというのだ。あれを下流へ行けば飯野川の宿になり、それから、ずんずん下れば追波湾《おっぱわん》へ出るのだ、今では石巻方面よりも、あちらの流れが北上川の本流と言いたいくらいだ。さあ、しかし、こう認めた以上は、あいつらをこうして遠方からいい気でさげすんでばかりいてはならない、あれを追いかけなければならない、追っかけて手捕りにしなければならぬ使命と責任とを負う身だ――もう一ぺん、あの野郎を相手にロケーションを繰返さなければならない、今度は船頭共とは相手が違う、追いついた以上はこっちのものだが――追い過して海へでも追い出してしまってはならぬ」
というようなことが気懸りになると、白雲も実際、対岸の火事の如く、対岸の駈落者を興味半分だけで見ているわけにはゆかないことに胸をうちました。
二十八
田山白雲が船を出て行った夕べ、駒井甚三郎は、ひとり静かに船室に落着くと、「人が出て行った」という感傷に堪えられない。
白雲が出て行ったのは戻るために出て行ったのである。七兵衛が帰って来ないのは帰りたくてたまらないのが帰れない事情に妨げられているということを、駒井はよく知っている。それだのに、人が去って行くという淋しい気持を、如何《いかん》ともすることができません。
マドロスと兵部の娘に至っては論外であるけれども、それですら、離れて出て行ってしまった人間には相違ない。彼等の放縦と、我儘《わがまま》と、不謹慎とで背
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