キ産業ハ天然ノ景色ト相俟《あひま》ツテ有志ノ志ヲ待チツツアル、牡鹿唯一ノ都ハ無意味ニ廃頽《はいたい》ニ帰スベキデハナイ、石巻恢復ノ策三ツアル」
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と、版下でも書くようにかっきりと書いて、その下に「平五郎」と銘を打ってあるのは、つまり平五郎という人の石巻観を率直に述べたものらしい。その次に「野老庵小集」とあって、
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風呂吹に酒一斗ある夜の会 木犀
風呂吹や尊き親に皿の味噌 其北
風呂吹を食へば蕎麦湯《そばゆ》をすすめ鳧《けり》 陽山
風呂吹の賛宏大になりにけり 平五郎
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ここで句会を催した逸興であるらしいが、その次に、六朝風《りくちょうふう》の筆で、
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芒鞋布韈路三千(芒鞋布韈《ばうあいふべつ》路三千)
追逐看山臨水縁(追逐《おひおひ》に山を看《み》、水縁に臨む)
唱出俳壇新韵鐸(俳壇に唱へ出す新韵《しんゐん》の鐸《たく》)
声々喚起百年眠(声々に喚起す百年の眠り)
身在閑中不識閑(身は閑中に在つて閑を識らず)
朝躋鶴巓夕雲開(朝《あした》に鶴巓《かくてん》を躋《こ》え夕《ゆふべ》に雲開く)
瓠壺之腹縦摸筆(瓠壺《ここ》の腹に縦《ほしいまま》に筆を摸《さぐ》り)
収拾五十四郡山(収拾す五十四郡の山)
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打見たところでは一律のようになっているが、二絶句である。この詩と句とによって考えると、平五郎という俳諧師《はいかいし》が、遥々《はるばる》ここへ旅に来て、同好の士がこれを迎えた。平五郎という人は近世の俳人で、そうして、これによって見ると、都から遥々旅をして来た人だ。路三千とある。山河遍歴に於ては芭蕉に勝るとも劣らない人と見える。そこで白雲も、身に引比べて何かしらこの六枚屏風の余白に一つ書いてやりたい気になって、御苦労千万にも、一旦ついた枕をあげて、帯を締め直し、行燈《あんどん》をかき立て、筆墨の行李《こうり》を開きにかかりました。
白雲は屏風の余白へ何か書いてみたい気になりましたが、さて、お手前ものの絵を描く気になれませんでした。
何か字を書きたい、といったところで、その文字も咄嗟《とっさ》に平仄《ひょうそく》を合わせて詩を作るの余裕もなく、また、あまり自信もない和歌や俳句の速成をのたくらせて、この道の泰斗名家のあとを汚すほどの向う見ずもやりたくなく、思案のはてが、いきなり、
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ゆく春や鳥|啼《な》き魚の目はなみだ
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と、ぶっつけ書きに、墨壺の水のゆるすだけを大きくなぐりつけて、そうしてその下に、魚と、鳥と、水と、木の枝とを描いて、ああこれでよしと心が落着き、ひとり感心しながら再び枕につきました。
何の理由で、田山白雲が特にこの句を認《したた》める気になったのだか、それはわかりません。ただこの場合、むやみにここへこの句を書いてみたくなったから、その衝動にかられて書いてみただけのものでありましょう。しかしながら、即興といっても、衝動といっても、人間は日頃心にないことを、自発的に発表するはずはありませんから、田山白雲は、日頃この一句が何がなしに好きで、記憶に溢《あふ》れていた結果と見なければなりません。
それでようやく、白雲の即興の昂奮もどうやら鎮静して、そうして枕につくや、ぐっすりと熟睡に落ち込んでしまいました。
二十六
その翌日、白雲は漫然と結束して宿を立ち出でると、早くも北上川の渡頭《ととう》の上の小高いところに立って、北上川の北より来《きた》って東南にのぼり流るる勢いに眼を拭いました。
「ははア、これが北上川だな――」
白雲はここで初めて、北上川というものの印象を新たにしました。
北上川そのものを見ることは今にはじまったことではないのです。現に昨晩泊った石巻の港が、その北上川の河口にあるので、今日はまたその沿岸を溯《さかのぼ》って来たのですから、北上川とは絶えず道連れになって来たのに相違ないが、ははア、これが北上川だなと印象を新たにして、例によって限りなき旅心を湧きたたせたのは、この渡頭に立った時が最初であると言わなければなりません。
立って北上川及びその彼方《かなた》、漠々と連なる陸奥《みちのく》の平野を見ているうちに、白雲は旅心濛々《りょしんもうもう》として抑え難く、やがて大きな声をあげて歌い出しました。
感|来《きた》って吟声が口をついて出でるのは、白雲も元来が多情多恨の詩人的素質を多分に持って生れたのみならず、これは清澄の茂太郎を育てつつある間に、それにかぶれたところもあると見なければなりません。その白雲の吟懐を、清澄の茂太郎がまた反芻《はんすう》して輪をかけるということになり、即興と出鱈目《でたらめ》とに於ては、師弟いずれが本家だかわからないくらいになっているのであります。
今や北上川の渡頭の辺《ほとり》に立って田山白雲が歌い出したのは(むしろ唸《うな》り出したのは)――
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「三代の栄耀《えいえう》一睡の中《うち》にして、大門《だいもん》の跡は一里こなたに有り、秀衡《ひでひら》が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先づ高館《たかだち》にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川《ころもがは》は和泉《いづみ》ヶ城《じやう》をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡《やすひら》が旧跡は衣ヶ関を隔てて、南部口をさし堅め夷《えびす》をふせぐと見えたり。偖《さて》も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢《くさむら》となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるまで泪《なみだ》を落し侍《はべ》りぬ。
夏草やつはものどもが夢の跡」
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これは、やはりこの土地の形勢によってうつされた文章でないことはわかり切っておりますが、白雲はどうしても、これをこの場で歌ってみたい気持になったのは、「まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉ヶ城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る」という気象がここでピタリと来たから、それでこの文章をここで高らかに吟じてみたくなったのでしょう。それは昨晩の屏風に、無性に「ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ」と書いてみたかった心持、時は、秋であるのに、往《ゆ》く春の心が抑えきれなかったのと、同じ衝動でありましょう。
そうしてまた、北上川なるものの相がいかにも汪蒙《おうもう》として、古調を帯びたところに、白雲の心胸が打たれないわけにはゆかなかったのでしょう。
こちらへ来る間にも、荒川だとか、大利根だとか、那珂《なか》、阿武隈《あぶくま》、近くは名取川に至るまで、大小いくつかの川を渡っては来ているけれども、この北上川へ来て見ると全く違った感じ――どうやら奥州の夷《えびす》――更に遠くは日高見の国をまで眼前に思い浮べ来ったものと見えます。
キタカミの文字がヒタカミの訛《なまり》であるという考証を仙台で聞いた。してみると、人文の未《いま》だ剖判《ほうはん》せざる上古、武内宿禰《たけのうちのすくね》や、日本武尊《やまとたけるのみこと》の足跡がある。キタカミとヒタカミは果して相通じているか知れないが、この川の気象を見ると、悠々として北から流れ来って西へ溯《さかのぼ》るところが、他の河川の北より出でて東海に注ぐ河相と趣を異にしている。北上の名の字面《じづら》も単純ではあるが、大きくして淋しい、または何となくこの川の川相を尽している、なんぞと字義の詮索にまで及んでみました。
白雲はそうして、のぼせきって川をながめている間に、もともとこの地点は渡頭のことで、仙台から南部へ通ずる要路でありますから、いかに北地のこととはいえ、一人、二人、三人の旅人が川岸へ集まって来るのであります。漁者《ぎょしゃ》もあれば樵者《しょうしゃ》もある、農工の人もあれば旅の巡礼もある、馬もある、駕籠《かご》もあろうというものです。それがやがての間にかなりの数にまとまって、そこで一同が誰言うとなく、ブツブツと言い出しているうちに、じれったがる声、船頭を呼ぶ声が口々を突いて出でたので、それとは少し離れて高いところになっている地点で、右の如く風景をほしいままにし、空想を食物としていた白雲の耳にまで届くようになりました。
「なるほど……舟が出ない、拙者のように風景を食物として、心目を遊ばせている身とは違い、人生の必要あって旅程を急ぐ人にとっては、待たせられるのは長いものだ、待つ身はつらいものだ、なるほど、待たせるにしても、これはどうも少し待たせ過ぎるな、いくら北のハテの暢気《のんき》な土地柄にしても、あまりに悠長な船出ではある、自分が来てからでも、これだけの時間、もうこれだけの人が集まっている、船頭が顔を出してもよかりそうなものだ」
と、舟を待つ人の不平に白雲はそろそろ共鳴したが、なるほど舟は川の下に見えるが、船頭がいない。
「オーイ、船頭どん」
「どしゃむしゃ船頭どん」
盛んに呼びたてているが、船頭が返事もしないのは、あの小屋の中にいないらしい。いないとすれば、ドコぞへすっぽかしたのか、そうでなければ向うの岸へ舟を渡して行って、向うからまた人をその舟へ乗せて渡るという段取りだろう。ははア、向うの岸にも船頭小屋があり、舟があるにはある。舟といえば、この渡しの舟の形はおかしい、舳《まえ》も艫《うしろ》もない、ひきがえるを踏みつけたようなペッタリした舟だワイ、あちらの岸の舟もそうだ。
いったい、川舟と草鞋《わらじ》は土地土地によって違う。川舟の形というものは、土地のものがその河流の水勢によって経験的に工夫した形が多いから、一定したものだと思うと大きに違う。例えば、富士川の急流には富士川の急流に向くように底までがちゃんと附木《つけぎ》ッパのように薄くしてある。利根川の舟でも、上流、中流、下流、皆それぞれ違う。今ここへ来て北上川の舟が、ひきがえるを踏みつけたようなペッタリした舟だと言って、それを笑うのは間違っている。草鞋にしてもそうだ、平地を歩くものは平地を歩くように、山路を歩くものはそのように、走って歩く商売の草鞋と、ずしりずしりと踏みしめて行く人の草鞋とは作り方が違う、形によって軽蔑してはならないのだ。
白雲は、そんなことまで思い出していたが、まだ船頭の影も形も見えない。不平がようやく沸き上ってくる。いくら東北人は鈍重であるからといって、これではたまらなくなるのも道理だと考えました。
いったい船頭は、どこに何をしているのだ。こっちの岸の舟小屋にだって一人や二人いなければならないではないか。いないとすれば向うの小屋に何をしている。
悠々たる白雲も、ついに少し癇癪玉《かんしゃくだま》が焦《じ》れてきて、向うの岸を見つめていたが、どうも遠目にはっきりと見えないのをもどかしく思いました。眼を拭ってもう一度見直そうとした途端――白雲がはっしとばかり思い当ったことがあります。われながら迂濶《うかつ》千万、実は昨日、船を立つ時に、駒井氏から借用して来た「遠眼鏡《とおめがね》」というものが、ここにあるではないか。この行李《こうり》の中に納めて来て、こんどはこれをひとつ充分に活用してやろうとの楽しみが、こんどの旅程の一つの新しい景物と期待していたのを、今まで忘れていたのだ、こういう時だ、この時だと気がつくと、白雲は急いで行李を解いて、その中から取り出したのが最新式の「遠眼鏡」であります。
二十七
この「遠眼鏡」をもって、田山白雲が対岸の渡頭の船頭小屋のあたりに照準を据えた時、不意に右の船頭小屋の後ろから雲つくばかりの大きな男が飛び出したのを認めました。
ははア、出たな、裏の方から出たな、出は出たが、今までの悠長さに引換えて、これはまた、すばしっこい飛び出し方だ、と呆《あき》れているうちに、その飛び出した大男が、河岸《かし》の舟の方へは来ないで、右手の小高い方へ一目散に何か抱えて駈け出して行く。どうも変だと見ていると、続いてまた、同じ船頭小屋のうし
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