岸の上からも見られるようにしておきましたから、広くもあらぬこの港の津々浦々は、総出の見物です。
 それから、飛入りをうながすと、最初ははにかんでいたのが、一人やり二人やるうちに、勇気が出て、ところの名物の総ざらいがはじまったようなものです。
 そこで、当日は臨時の大祭が行なわれたようなもので、船の人も楽しむと共に、土地の人々をも楽しませることができ、陽々たる和気がたなびいて、お松の考案は百%の効果をあげたという次第です。

         二十四

 かくてその翌日、田山白雲は一石三鳥の目的をもって、暫《しば》しの旅に立ちいづる。
 しばしの旅のつもりではあるが、旅という気になってみると、またしても漂浪性の血が脈を立てて、一石三鳥の重任ある身でありながら、白雲悠々の旅心が動くに耐えないのです。
 つまり、船に来てから人に逢ってみると里心がついて、この当座は、人間界の代物《しろもの》でしたけれども、ここでまたも放たれた気分になりました。放たれたといっても、誰も白雲を囚《とら》えんとしたものはないのですけれども、人事のことがあれこれと左右に群がると、どうしても旅心そのものは抑圧されてしまいます。しばしでも人事を離れてみると、旅心というものは、生き生きと盛り返して来るものなのです。
 だから、旅心といえば体《てい》がよいけれども蛮性に帰るのです。近代人の社会性をはなれて原始の漂浪性に帰るのです。歴史は人類の野性、獣性、蛮性、無宿性、無頼性を訓練するために、まず人間に恋愛を教えました。恋愛が次に羞恥《しゅうち》を教えました。羞恥が人間に衣服を教え、衣服が人間に住居を教え、住居が人間に近隣を教え、団体性を教え、国家性を教え、社会性を教ゆるところの最初のものとなります。
 原始の人類は遊牧の民でありました。彼等は食のあるところが住のあるところでしたから、漂浪がすなわちその生存のレールでありました。ですから、今日に至っても、人間をひとりで置けば、当然この原始性への逆転を見ないではおられません。ひとりで置けば人は漂浪に帰ります。そうして道徳的には一種の放蕩《ほうとう》の人とならざるを得ないのです。酒色に溺《おぼ》れるだけが放蕩ではない、人間社会の約束を無視して、旅心をほしいままにせしむるは即ちこれ一つの大なる放蕩であります。さればこそ、芭蕉翁の如きも、西行法師の如きも、古今無類の放蕩漢と言えば言われる。多くの人が、この種の放蕩漢になれないのは、前に言う如く、まず恋愛を教えられたその枷《かせ》なので――恋愛あるが故に妻があり、妻あるが故に子があり、子があるが故に隣り社会のお附合いに柔順にならなければならない弱味を、人間というものが体得してくる。そうして、人間は完全に原始人への逆転を防止されて、善良なる国民に馴致《じゅんち》されると共に、自己本来の旅心は極度の暴圧を蒙《こうむ》っている。古来、人間に加えられた重大なる抑圧と、苛辣《からつ》なる課税の筆頭は恋愛でありました。
 石巻へ来て、ともかく、ここで一泊の上、一石三鳥の使命を再検討しなければならない自省心によって、白雲の漂浪性が取りとめられたようなもので、もしこのことなくば、白雲の今度の旅にも全く糸目というものがなく、このまま三日月の円くなり、明月の三日月になるまで、南部領あたりを巡っていたかも知れないのです。
 石巻の港の、田代屋とある宿へ泊りを求めて、さて、第一次に為《な》すべきことは、よき道案内の地図を求めることでした。相当の絵図は、船で駒井の文庫から写し取って来たものの、内地のくわしいのになると、その土地で求めるか、或いは実地について、聴取図、見とり図のようなものを作って置いてかからねばならぬ。
「絵図はあるかな、奥州一国の全図でもよし、この附近の郡村の地図でもよろしい、何でもいいから一つ貸してくれないか」
 こう言って宿へ頼むと、
「うちには、いい絵図はござりませぬ――この間、お客様が置いてござった絵図が一枚ありましたはず、あれをごらんに入れましょうか」
「何でもいいから見せてくれ」
「持ってまいりましょう」
 女の子が絵図を持って来た。それで見ると、仙台領の南の部分、松島から石巻、牡鹿半島の切絵図――あまり上手でない手つきで、棒を引いたり、書入れをしたりしてある。
「結構結構、少しの間、貸してくんな」
 白雲は、その絵図を篤《とく》と見入りました。そうして、自分のこしらえて来た図面と参照して、多少の書入れをする。
 そのうちに、絵図面の終りの方を見ると、同じ手筆《しゅひつ》で、
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「清澄村 茂太郎所持」
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と書いてある。
「おやおや、ここにも茂太郎がいたぜ、同じく清澄村の住人……」
 田山白雲は、これを、先頃の笠島の道祖神の絵馬と思い合わせないわけにはゆきません。
 思い合わせて見れば見るほど、あれと同じ人間の手になるのです。
 そこで、また女中を呼んで、いったい、この絵図を置いて行ったお客様てのは、どんなお客様であったか――え、え、それは、これこれ斯様《かよう》な人でござりまして、毎日毎日のように出てお歩きになりました。なんでもお江戸から船のお着きになるのを待兼ねての御様子でございました。あ、そうか、そうして年頃は、うむ、なるほど……
 それこそ七兵衛おやじに紛《まぎ》れもないと、白雲が直ちに覚りました。そうしてみると、あの道祖神の絵馬も、ますますあのおやじの仕業に違いない。なお、してみると、あの絵馬は、特に自分の筋道を慮《おもんぱか》って、そうして目印に、こちらの目につき易《やす》いようにとの親切でしたことだ。今ここで、わざわざ清澄村茂太郎の署名をした絵図を忘れて行ったのも、何かこれを我々のための合図の下心ではないか。なかなか細かいところに親切のある男だな。
 ああ、そう言えば、なるほど――何のこった、迂濶千万《うかつせんばん》、今までのことにまぎれて、それを忘れていたが、あの名取川べの蛇籠作《じゃかごづく》りの時に、あの男が、房州に残し置ける拙者の財産を、危急の場合にかき集めて、石巻の宿まであずけ置いたということだったが、そうだ、何といったかな、その宿の名は――そうそう、田代の冠者《かんじゃ》で覚えている、田代屋というのだ、その石巻の田代屋というのへ、房州に残し置いた拙者の財産を持って来て預けて置いたと、名取川であの男が確かに言った――この宿が、その田代屋ではないか、そうだ、田代屋だ、この帳面にある。
 急にその事を思いついた白雲は、番頭を呼んで、その由を申し入れてみると、番頭の言うには、確かにお預り申してあります――土蔵へ蔵いこんでございますから、只今、取り出してごらんに入れます。そうか――それはよかった。白雲はここで思いがけなく、房州で別れたわが子にめぐり会われるような喜びを感じました。
 土蔵から、その財産を取り出して来てくれる間のこと、田山白雲は、地図を按《あん》じて、追手搦手《おうてからめて》の二つの戦略を考えはじめました。
 追手というのは、七兵衛方面のことで、搦手というのは、ウスノロと兵部の娘の馳落方面のことをいう。この二つを、これからどう目当てをつけていいか、ここ石巻を策源地として手段方法を案じはじめたのです。

         二十五

 つらつら地図を按ずると、どうもなんとなく、第六感的に、北東部が気になってならない。ここから北東部といえば、北上川の支流にあたる追波《おっぱ》、雄勝《おかち》方面と、それから自分がいま経て来た万石浦《まんごくうら》から、女川湾《おんながわわん》をいうのです。
 七兵衛の逃げた方面というのは、全然雲を掴《つか》むようなものだが、絶体絶命の場合には、方角を選ぶ余裕は無いにきまっているが、しかし、彼の本心の磁石は、必ずや月ノ浦の無名丸に向っているに相違ない。一旦はやみくもにどちらへ逃げようとも、やがては、月ノ浦をめざして慕い寄ろうとする心持はよくわかるから、西南北へ向って遠く走り過ぎる心配はない。マドロス並びに兵部の娘らしいのが、万石浦を小舟で渡ったというのを見た者があるというから、これは、いずれその辺の、木の根、石の蔭に当分こらえていて、たまらなくなれば這《は》い出すのだ、この方は発見にそう骨が折れない! と、田山白雲は最初からタカをくくっているのです。
 いずれにしても、円心はこちらにある、牡鹿《おじか》、桃生《ももふ》、志田、仙台の界隈《かいわい》をそう遠く離れるに及ばないということを、白雲は白雲なみに断定して、漫然とこの北上川の沿岸を漂浪しているうちには、何とか手がかりがあるだろう。奥羽第一の大河としての北上川の沿岸をぶらついているうちに、その風光を画嚢《がのう》に納めなければならない。本来はこの方が本業なのだが、ここに白雲の仕事がまた一つ加わって、つまり、一石四鳥の目的のために、当分はこの辺をぶらついて、ということに思案を定めました。
 その思案が定まった時分に、番頭が蔵《くら》から七兵衛おやじからの預り物、つまり、房州洲崎の暴動の際に、手早く、かき集めて、ここまで持って来てくれた白雲の財産――といっても、写生画稿が主であって、一般経済の上には大した価値のある代物ではないが、自分の丹精の無事なのを見て、
「これ、これ――まず、これで安心」
 白雲は、一応あらためてみて大安心をして、その荷物をまた一からげ、帰りまで更に保管を託して置くことにしました。
 そうして、夜具をのべてもらい、枕に就くと女の子が、六枚屏風を持って来て、立て廻してくれました。六枚屏風は少し大形《おおぎょう》だと感じましたが、その手重いところが、また、旅情の一つと嬉しくも思いました。
 そこで、枕について、それとなく立て廻された六枚屏風を見ると、それは月並のつく芋山水《いもさんすい》を描いたものでなく、いろいろの文字を寄せ書してある様子が異っているから、また少し枕の向きをかえて見直すと、一目でわかる旅姿の芭蕉《ばしょう》の像を描いて、その上に文章が記してある。
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「終《つひ》に道ふみたがへて、石の巻といふ湊《みなと》に出づ。こがね花咲くと詠みて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船、入江につどひ、人家地をあらそひて、竈《かまど》の煙たちつづけたり。思ひかけずかかる所にも来《きた》れるかなと、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明す」
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 これを読んで田山白雲が、ははあ、「奥の細道」だな、「奥の細道」も、松島や平泉のところの名文は空《そら》に覚えているが、こんなところはあまり気がつかなかった。宿からんとすれど、更に宿かす人なし――か。なるほど、芭蕉翁の如き名人でもこれだな、我々が、こうして田舎《いなか》廻りをしていながらも、とにかく、宿かす人はある。一とせ文晁《ぶんちょう》は、松平楽翁公につれられて仙台へのり込んだそうだが、豪勢な羽ぶりであったそうだ。当節は絵師といえども、名声を得ればお大名だが、昔は芭蕉ほどの大家聖人でも、我々に劣った旅をしたものだ。しかしそういう貧しい旅のうちに、人間の真相というものが本当に掴めるのだ、人生の深奥《しんおう》というものに、かえって触れることができるのだ、有難いものだ。
 白雲はガラになく、しんみりと、こんなことを思いやって六枚屏風をながめているが、この六枚屏風には単にこれだけのことを記してあるのではない、なお、盛んに、あとからあとからとつぎ足しらしい筆蹟が続いているのである。
 次のは片仮名文字入りで、
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「潮流ト河流トノ関係デ、北上ノ河口ガ土砂デ塞ガツタ、北上ノ無尽蔵ナ水利ガ殆ンド無用ノ長物ニナツタ、石巻ノ衰ヘタ原因ハ如何《いか》ニモ明白デアル、水ニ鮭《さけ》、鮪《まぐろ》ガアル、陸ニ石、糸ガアル、長十郎梨ガアル、雄勝ノ硯石《すずりいし》モアル、渡ノ波ノ塩ハ昔カラ名高イ物デアル、アタリノ禿山《はげやま》ニ木ヲ植ヱ、荒蕪《くわうぶ》ノ地ヲ開墾スルナド興スベ
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