イン、フェイア、ウイズ、オール
ハア、バージン、スタース、アバウト
ハア――
[#ここで字下げ終わり]
 口早にそれを言い切ると、また足拍子がはじまりました。
[#ここから2字下げ]
チーカロンドン、ツアン
パツカロンドン、ツアン
[#ここで字下げ終わり]
「あれです――出鱈目《でたらめ》もあの程度になると、仕入先がちょっとわかりません、漢詩などは、われわれが偶然のすさみに口頭にのぼったやつを、直ぐに乾板にうつしとって置いて、複製して出すのですが、あのペロペロはどこからどう覚えて来るのですか、あれにも相当のよりどころはあるのでしょう――全く油断も隙《すき》もならない奴です」
「驚きました、本当に驚きました」
 本物の詩人と画伯を全く茫然自失せしめているとは知らず――足拍子おもしろく船べりを踊って、トモの方へ来た時分に、
「あ、ムク、あ、ムク――ムク、お前はどうしたのかえ」
 ここで全くブチこわし。
 反芻《はんすう》もローマンもあったものではありません。世の常の子供が、驚いてベソをかいたと同じような狼狽としょげ方とで叫び出しました。
「ムク――ムク」
 今まで所在を潜めていたムクが、かくまで昂上してきた茂太郎の感興を一時に打破るがものはありました。前両足を揃えて、耳を筒の如く立て、眼をらんらんと光らせて、そうして遠くこし方の岸上を見込んで、身の毛を簑《みの》のようによだてて立ち上った瞬間を最初に認めたのは、清澄の茂太郎ひとりでしたけれども、その凄気《せいき》に襲われたのは船の人すべてでありました。
「どうしたのだ、茂――」
「ムクが……」
「いいからもっと踊らないか」
 白雲が茂太郎の踊ることをむしろ奨励してみましたけれど、茂太郎の耳には入りません。
 と同時に、ムクが吼《ほ》えました。遠く岸上をのぞみながら吼え立てました。その吼え声が、またしても可憐なる女詩人を渾身《こんしん》からふるえ上らせずにはおかない。
「あ、ムクが……」
 この急に存在を持上げた巨犬が、ザンブとばかりに海中へ飛び込んだので、満船の人がまた慄《ふる》え上りました。
 最初は、茂太郎と相抱いて飛び込んだかと思われるほどでありましたのに、よく見ると、飛び込んだのはムクだけで、茂太郎は確実に舟のうちにこそあるが、その手と心は、まっしぐらにムク犬のあとを追いかけているのです。
 それを後にして、犬がまたまっしぐらに遠くの岸の方をのぞんで泳ぐこと、泳ぐこと――この状態がついに、船中の田山白雲にも解しきれなかったくらいですから、玉蕉女史にも、附添の老女にも、船夫風情にも合点《がてん》のゆきようはずはありません。
 ひとり、清澄の茂太郎が、それから船一杯にうろたえ廻りました。
「先生――大変です、ムクが眼の色を変えて飛び出しました、あの犬が眼の色を変えて飛び出すからには、よほどの大変があると見なければなりません。ごらんなさい、これほどわたしがうろたえているのを顧みもせず、真一文字に海を泳ぎきって行くのをごらんなさい、岸へ向って行くから、変事はきっと岸の方にあるのです。ですけれども、岸は遠いです、ごらんなさい、町の火影《ほかげ》が星のように小さく、あんなに微かに見えるではありませんか。皆さん、わたしたちは興に乗じて少し来過ぎました、岸が遠過ぎます、いかにムクだって、翼があるわけではありませんから、この海を泳ぎきって、あの岸まで行く間には時間がかかります――ああ、わたしたちは、いい気になって、月に浮かれ、景色にみとれ、少し遠くまで来過ぎてしまいました」
 茂太郎は、こう言って船べりに地団駄を踏むのです。
 重ね重ね、呆《あき》れ果てている白雲も、玉蕉女史も、事の仔細は紛糾交錯《ふんきゅうこうさく》して何だかわからないが、そう言われてみると、自分たちは、たしかに岸を離れること遠きに過ぎたという感じだけは取戻しました。

         二十一

 ことがここに至っては、いかに逸興の詩人騒客《しじんそうかく》といえども、再び以前の興を取戻すことは不可能でしょう。
 すべて、事は盛満を忌《い》むもので、今宵の風流は、最初から興が酣《たけな》わに過ぎました。こうなった以上、どのみち、舟を戻して興を新たにするよりほかはないでしょう――言わず語らず舳艫《じくろ》はしめやかにめぐらされました。
 一方――どこをどうして泳ぎ着いたのか、ムク犬は完全に五大堂前の松島の陸の岸の上に身ぶるいして立ち上ると、そのまま息をもつかず、めざして走るところは、まさしく瑞巌寺《ずいがんじ》の境内《けいだい》であるらしい。
 果して瑞巌寺の門内、法身窟の前の真暗闇《まっくらやみ》の中に、まっしぐらに走り入ると、その闇の中の行手から息せききって走って来る一人の人の姿と、ムクとが、バッタリと出会いました。
 出合頭《であいがしら》にムクが一声吠えると、
「まあ、ムク」
 バッタリ行会った先方の人影が、狂喜の叫びを立てて、この犬に抱きついて、
「ムク! 遅かったねえと言いたいけれども、考えてみると、お前の来るのが遅かったのがよかったかも知れない、お前の来ることがもう少し早かろうものなら、かえって大変なことになったかも知れない、今となっては……どうしていいか、わたしにも分らない」
と言ったのは、まごうべくもないお松の声であります。
 無論、この絶望に近い呼び声に対して、なんらの表情をも返すことのできない畜生の身ではあるけれども、ある一種の意気込みを示していることだけはたしかであります。
 この犬の性質と、挙動と、それから性質と挙動から起る表情を知り抜いているはずの人には、夜であろうとも、表情の機関が働こうとも働くまいとも、その気合は充分に受取れるのです。代って言ってみれば、
「お松さん、どうしたというのです、あなたにも似合わないじゃありませんか、さあ、どこへなりとわたしを御案内して下さい、あなたが行ききれないところへも、わたしなら行きます――あなたが相手になれない相手にも、わたしなら、なることができるかも知れません、さあ、わたしを、どこへなりとやって下さい」
 こう言って、息をきりながらも、落着いて促し励している呼吸は、たしかなものです。
 それでもお松から、行けとも、止れとも命令の出ないのをもどかしがって、
「ね、あなたは、七兵衛おじさんを尋ねて、こんなに心配苦労をしているのでしょう、わたしもそれが急に気にかかってたまらないから、それで、ここまで抜けがけをして来たのですよ、七兵衛おじさんはどうしました、あなたが暗示をさえ与えて下さるなら、わたしならきっと嗅ぎつけて上げます、さあ、早く」
 こう言って、ムク犬から促し立てられていることはたしかに受取れるが、お松はそれに、指図も、命令も下す気にはなれないようです。
「ムクや、お前の志は有難いけれど、実は、わたしにも、何が何だか、ちっともわからないのですよ。どうも、この胸は心配で心配でたまらないけれども、また、七兵衛おじさんが、そう滅多に人に捕まるようなはずはないとも思われるから、安心しているところもあるのです。それですから、お前のような強い犬をやって、もしあやまってお役人を傷つけたりなんかして事壊しになってはいけないから、それで、せっかくのお前の好意に対しても、わたしはなんにも言えないの――けれども、有難うよ、お前は本当にいい犬ですね、いつもこんなにしてもとの御主人のお君さんを護っていたのですね。でも……お前ほどの神《しん》に通じた強い犬でも、それでも人間の運命というものは、どうすることもできませんでした、お君さんの身を守ったけれども、命を助けることはできませんでした。今、その親切を、わたしたちにしてくれる……どうして、わたしがここにいることがわかったのか、それをお前にたずねてみるのも野暮《やぼ》ですね、お前には、ちゃんと未然がわかる働き、神通力《じんずうりき》というものがあるって、みんなそう信じているから間違いはない、せっかくだけれど、ここは諦《あきら》めて、田山先生に御相談してからのことにしましょう。宿へ帰りましょう、もう先生も帰っていらっしゃるでしょうから……」
 思慮あるお松は、ムクのせっかくの加勢を得たりとして、あの臥竜梅の場の捕物の方へ引きかえすこともしないし、また、その人数が引きあげて行ったらしい方向をムクと共に追おうともしないで、ムクを従えて、大きな不安のうちに、一種の分別と、沈着とを以て、また海岸の方へと出てしまいました。

         二十二

 風流韻事《ふうりゅういんじ》で、いい気持になりきった田山白雲が船を漕《こ》ぎ戻させて、宿へ帰って見ると、果して非常事がありました。
 お松から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞き取った上、改めて瑞巌寺まで行って問いただしてみると、だいそれた、この「つわ者隠し」の天井に賊が潜んでいたのを、張込んでいた仙台の手のものに捕まってしまった。
 たしかに捕まったのか――ええ確かに手を後ろへ廻されて縛られてしまいました。最初はずいぶん、暴れましたけれど、仙台の方に、仏兵助《ほとけひょうすけ》という親分がいて、それがとうとう右の怪賊を生捕ってしまったに相違ございません。
 それを聞くと、田山白雲もがっかりしたが、お松のしおれ方は目もあてられないほどでありました。白雲はそれを慰めかねていたが――
「よし、お松さんの実見したところによると、果して七兵衛おやじが捕まったのか、疑問を存する余地は充分ある。捕まったにしても、つかまらないにしても、その罪状というのが明瞭でないのだから、いずれ放免されるにきまっているが、世間には人違いでヒドイ目に逢う者もある、みすみす冤罪《えんざい》で陥れられるものもあるのだから――そう絶望するがものはない。ひとつ拙者が本当のところを突きとめてみて、いよいよ捕まったとなればかえってまた方法もある、駒井殿と相談して貰い下げることも容易《たやす》いと思うから、そんなに気を落しなさるなよ」
 白雲はこう言ってお松をなぐさめて、その翌日、塩釜から仙台へかけて、昨夜の捕物の顛末《てんまつ》を聞きただし、さぐりを入れて歩いてみると、岩切というところで、一つの異聞をしっかりと聞きとめました。
 ここの立場《たてば》で――ほんのたった今、大変が起ったというので、火の見の下の茶屋で、土地の人が目の色を変えつつ、よってたかっているあたりの形勢の狼藉《ろうぜき》なのを見て、白雲はなんとなく胸を突くものがあるものですから、尋ねてみると、いよいよ聞き馴れない奥州語を、半ばは語勢で判じてみると、白雲が来たほとんど一刻前《ひとときまえ》、ここで大活劇が行われた――というのは、松島から連れて来た重大な犯人が、ここで駕籠《かご》を破って逃げてしまったところだというのです。
 それだ! 更に突っこんでその点を厳しく尋ねてみると、いよいよそれに相違ない。駕籠脇について来たのは仙台名代の親分で仏兵助という者――ここで一行が暫く休んでいるうちに、兵助親分が、「おとっさん、あの駕籠の中へ、温《あった》けえうどんを一ぺえ、くれてやってくんな」というような情けを見せたのが仇となったようです。
 うどんを一杯、駕籠のところまで持って行ってやると、そのうどんを食べるには、どうしても小手をゆるめてやらなければなりません。
 兵助親分にしてみれば、なあに、俺がついている――いいようにしてやれというはらがあったので、うどんを口へ運ぶだけの手のゆとりを許したものらしい。
 そうすると、非常に有難がって、旨《うま》そうにそのうどんを食べてしまったが――食べてしまうと丼《どんぶり》の中に、どうして入れたか小判が二枚あったそうです。
 誰が丼の中の二枚の小判を最初に認めたか、それはわからなかったが、とにかく、非常に神妙に、丁寧に、一椀のうどんにお礼を言ってしまってから、あとの願いがまことに申し兼ねたことですが、用便がいたしたいということでした。
 それは兵助親分の同意を得たわけではないが、誰か近くにいた目明《めあか》しのお目こぼしで、駕籠か
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