こゆる心地ぞする。古人|冠《かんむり》を正し衣装を改めしことなど、清輔《きよすけ》の筆にもとどめおかれしとぞ」
[#ここで字下げ終わり]
古人の名文は、今人の心を貫くが故に名文なのだ。名文というものは人の言い得ざることを言うが故に名文なのではない、万人言わんとして言い得ざることを、すらすらと言い得るから名文なのだ。
こうして、郡山、二本松、あさかの山――黒塚の岩屋をそれぞれに一見して、福島についたのは、その翌々日のことでした。
福島の家老に杉妻栄翁という知人があって、これをたずねてみると、この人は藩の政治になかなか勢力ある一人ではあったが、またよく一芸一能を愛することを知るの人でしたから、白雲のために、その家がよい足がかりとなったのみならず、かなりの仕事を与えられたのみならず、狩野永徳を見んがために松島に行くという白雲の意気の盛んなるに感心し、
「なるほど――観瀾亭《かんらんてい》の襖絵《ふすまえ》のことは、わしも聞いている、それが山楽、永徳であるか、そこまではわしは知らん、しかしながら、たしかに桃山の昔をしのぶ豪華のもので、他に比すべきものはない。苟《いやしく》もその道に精進しようとするものは、一枚の絵のために、千里の道を遠しとせざるほどの意気が無ければならん。それに就いて思い起すことは、永徳ももとより結構に相違ないが――伊達家《だてけ》には、まだ一つ、天下に掛替えのない筆蹟があるはずじゃ、それを御承知か」
「伊達家のことでござるから、それは天下に掛替えのない宝が一つや二つではござるまいが――刀剣であろう、茶器であろう、これらは拙者に於てあまり渇望もいたさぬし、また渇望いたしたからとて、拙者のような乞食画かきに、わざわざ宝蔵を開いて見せる物好きな三太夫もござるまいとあきらめています」
「それもそうだ、観瀾亭の襖絵は、相当の紹介があれば誰にも見せてくれるだろうが――もう一つのは――これは到底及びもつかないことだろう、その点はあきらめるのが賢明ではあるが、学問のために、伊達家には、しかじかのものがあるということを覚えて置くのは無益でもござるまい」
「左様――※[#「足へん+曾」、第4水準2−89−48]※[#「足へん+登」、第4水準2−89−47]《そうとう》として他の宝を数えるのは知恵のない骨頂ですが、いったい、あなたがこの際、ぜひ覚えて置けとおっしゃる伊達家の至宝とは何物ですか」
「それはなあ、もちろん伊達家のことだから、天下無二の宝が数知れず宝蔵の中に唸《うな》っているには相違ないが――貴殿御執心の永徳よりも、それこそ真に天下一品として、王羲之《おうぎし》の孝経がござるはずじゃ」
「王羲之の孝経――」
これを聞いて白雲が一時《いっとき》、眼をまるくして栄翁の面《かお》を見つめましたが、押返して、
「それは、いささか割引がかんじんじゃ、大諸侯の物とて、一から十まで盲信するわけにはゆかん。いったい、羲之の真蹟はすべて唐の太宗《たいそう》が棺の中まで持ちこんで行ってしまったはずで、支那にも、もはや断簡零墨《だんかんれいぼく》もござらぬそうな」
「ところが、伊達家の羲之には、れっきとした由緒因縁がある、しかも、それには唐の太宗の御筆の序文までがついているそうじゃ」
「ははあ――眉唾物《まゆつばもの》ではござるまいなあ。まさか、奥州仙台陸奥守のことでござるから、嘘にしても何かよるところがあるでござろうがな」
「あるある、大いにある、そのよるところを話してお聞かせ申そう」
ここまで主客の間に話が進んだ時、来客で話の腰を折られて、それぎりになりました。
主人としては、なおくわしく、伊達家所蔵の王羲之の孝経――しかも唐太宗親筆入りという絶代ものの出所来歴を話して聞かせたかったらしいが、話がそこで折れた上に、その後は忙がしく、白雲もまた、いかに伊達家のことなりとも、羲之の真筆は少々割引物として、問いをほごすことをしてみませんでした。
そこで、伊達家の王羲之は立消えになったままで、白雲がこの邸を暇乞いをする最後まで復活しなかったのです。
けれども、この家の主人として、白雲が打立つ時に、仙台へ向っての有力なる紹介者となって、白雲の落着きを安くしてくれるの親切は残りました。その紹介者のうちに、
「仙台へ着いたら、ともかくも、玉蕉女史《ぎょくしょうじょし》をたずねてごらんなさい」
というのがありました。
玉蕉女史――とは何者?
それは才色兼備の婦人で、ことに漢詩をよくし、書をよくし、画を見ることを知り、客を愛し、旅を好む。ことに漢詩を作ることに於て最も優れている。
ははあ、これは珍しい。婦人で、才気ある婦人は必ずしも珍しいとはしない、三十一文字《みそひともじ》を妙《たえ》なる調べもて編み出し、水茎のあとうるわしく草紙物語を綴る
前へ
次へ
全57ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング