大菩薩峠
白雲の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勿来《なこそ》の関
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古人|冠《かんむり》を正し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]
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一
秋風ぞ吹く白河の関の一夜、駒井甚三郎に宛てて手紙を書いた田山白雲は、その翌日、更に北へ向っての旅に出で立ちました。
僅かに勿来《なこそ》の関で、遠くも来つるものかなと、感傷を逞《たくま》しうした白雲が、もうこの辺へ来ると、卒業して、漂浪性がすっかり根を張ったものですから、※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊顧望なんぞという、娑婆《しゃば》ッ気も消えてしまって、むしろ勇ましく、北地へ向けてのひとり旅が成り立ちました。
得てして、人間の旅路というものはこんなものでして、ある程度のところで、ちょっと堪《こら》えられぬようにホームシックにつかまるが、これが過ぎると、またおのずからいい気というものが湧いて出て、かなりの臆病者でさえが、唐天竺《からてんじく》の果てまでもという気分になりたがるものです。
白河城下を立ち出でたその夜は、須賀川へ泊りました。
白河から八里足らずの道。
この地に投弓《とうきゅう》という風流人があるからたずねてみよと、人に教えられたままにたずねると、快く入れて、もてなし泊めてくれました。
その翌日、例の牡丹《ぼたん》の大木だの、亜欧堂のあとだの、芭蕉翁《ばしょうおう》の旧蹟だのといったようなものを、親切に紹介されて、それから投弓のために白い袋戸へ、山桜と雉《きじ》を描いて、さて出立という時、主人が若干の草鞋銭《わらじせん》と「奥の細道」の版本を一冊くれました。
若干の草鞋銭は先方の好意でしたが、「奥の細道」は先方の好意というよりも、こっちの強要と言った方がよかったかも知れません。
「奥の細道! これが欲しい、この旅にこれは越裳氏《えっしょうし》が指南車に於けると同じだ――ぜひこれを拙者にお貸し下さい」
こう言って、白雲が強奪にかかったのを、根が風流人の投弓が、いやと言えようはずもなく、彼の拉《らっ》し去るに任せたものです。
白雲は、それから「奥の細道」の一巻を、道ながら、手より措《お》かずに、ある時は高らかに読み、ある時は道しるべの案内記として、足を進めて行きました。
白雲が「奥の細道」に愛着を感じていることは、一日の故ではありません。およそ、旅を好むものにして「奥の細道」を愛読せざるものがあろうとは思われません。
白雲もまた、芭蕉の人格を偉なりとすることを知っている。その発句の神韻《しんいん》は、到底、後人に第二第三があり得ていないことを信じている。その発句のみではない、その文章がまた古今独歩である。黄金はどこへ傷をつけても、やっぱり黄金である。人格となり、旅行となり、発句となり、文章となるとはいえ、いずこを叩いても神韻の宿ることは、あたりまえ過ぎるほどあたりまえのことだが、その文章のうちでも、この「奥の細道」は古今第一等の紀行文である。単に文章家として見たところで、馬琴よりも、近松よりも、西鶴よりも上で、徳川期では、これに匹敵される文章は無い。少なくとも鎌倉以来の文章である――白雲は、かく芭蕉の紀行文を愛して、その貧弱な文庫にも蔵し、その多忙なる行李《こうり》の中にも隠さないということはなかったのですが、今度は忘れて来た。そうしてその忘れた時に最も痛切なる必要を感じてきた。今その一冊を持ち合わせないことが、秋風の吹きそめた時、袷《あわせ》を一枚剥がれたように、うすら寒い。
ところが、それが、目の前に、投弓の家にころがっていたものですから、若干の草鞋銭なんぞは辞退しても、これをかっさらって行こうという賊心に駆《か》られたのも、また無理のないところがありましょう。それがすんなりと、草鞋銭も、「奥の細道」も二つながら、かすめ得たものですから、心中の欣《よろこ》び、たとうる物なく、明治二十年代の子供が「小国民」を買ってもらった時のように、嬉しがって、声高に読み且つ吟じて行くという有様です。
白河の関にかかりて旅心定まりぬ――なるほど、旅心定まりぬがいい――この一句が、今日のおれの旅心を道破している。
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「『いかで都へ』と便りを求めしもことわりなり。なかにもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉《もみぢ》を俤《おもかげ》にして、青葉の梢なほあはれ也。卯《う》の花の白妙《しらたへ》に、茨《いばら》の花の咲きそひて、雪にも
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