ざっし》なんぞにありゃしないか、あれは物識《ものし》りだから」
と言ってみたが、あいにく、ここにはその燕石雑志もない、三才|図会《ずえ》もない、どうも、この牛売リ損ネタ実例の出典に思い悩んでみても当りがつかないのであります。ついに神尾は一応断念して、
「明日あたり、市中の本屋をあさってみよう」
そこで筆をさし置いて、また庭の面をぼんやりとながめていました。
その時に、微風が吹いて来て、机の上を煽《あお》ると、さして強い風ではなかったけれど、半紙の薄葉《うすよう》を動かすだけの力はあって、二三枚、辷《すべ》るように、ひらひらと畳の上へ舞い下りました。
神尾が、あわててそれを抑えにかかった手先から洩《も》れたところには、「半生記」との題名が読まれる。
ははあ、著作といったのは、身の上を書いているのだな、しおらしくも、神尾主膳が自分の「半生記」の懺悔録でも書き残して置きたいという了見になったと見える。
それに相違ない、神尾の著作といったのは、かねてよりの宿望で、自分の父祖から、わが身の今日までの自叙伝を一つ書いて置きたいという、その希望が今日になって実現しかけたというわけなのです。そうして、書き進んで、神尾は自分の母のことを書く段取りになりました。母のことを思い出して書いて行くうちに、右の「女|賢《さか》シウシテ牛売リ損ネル」につき当って、その解釈に当惑したという次第なのでありました。
そこで神尾は、筆に現わすべき進行をやめて、その代りを頭の中に再現させ、自分の母というものの面影《おもかげ》を脳裏に描いてみました。
神尾主膳の母――
それが当人の頭の中での主題となっているのであります。外で見ては、ちっともわからないけれど、神尾の頭の中では、幼少の時代の自分と母との世界が、まざまざと展開している。母を想像する裏には、どうしても父というものが浮んで来なければならぬ。
自分の父というものは、ぐうたらで、のんだくれで、のぼせ者で、人から煽《おだ》てられれば、財産に糸目をつけなかった。どうにもこうにも手のつけられないどうらく者であったということは、自分も人伝《ひとづて》によく聞かせられて、事実そうだと信じている。その父に輪をかけて悪辣《あくらつ》になったのが、この自分だということをも、自分ながら相当承認している。人の噂《うわさ》から言っても、自分の印象から言っても、わが父なる者は、やくざ旗本の標本であったに相違ないとして、母は、それとは全く異った賢婦人であったということは、世間の通評であり、自分もあえてそれを否定しようとはしないが、よくよく考え直してみると、その信念がぐらつく。わが母は果して、父と全く打って変った良妻賢婦であったろうか、父が箸《はし》にも棒にもかからない欠陥のすべてを、母が埋合わせて、持ち合せていたように信じてよいものだろうか。
少なくとも、母がそれほどの賢婦人であったなら、この現在のおれというものを、こんなに仕立てないでも済んだのではないか。
わが母の賢婦説は再吟味の必要がある。父のぐうたらは検討の余地なしとしても、わが母というものの世間相場は、改定される必要はないか。
神尾は、今それをつくづく思い返している。
世間の人はその当時、言った、神尾の家は奥方で持っているのだ、主人は論外だが、奥方がしっかりしているから、それで持っているのだ――これが世間の定評になっていたのに、当人の母は、また唯一のあととり息子たるまだ頑是《がんぜ》ないこの拙者の耳に、タコの出るほど言い聞かせていたのは、
「神尾の家は、お前が起すのですよ、お父さんは駄目だから、お前が立派な人になって、見返してやるようにしなければなりません」
これが母の口癖であった。
だから、自分も、父というものは駄目なものだ、父というものは厄介者だ、自分たちの名誉を害し、生活を動揺させる以外の存在物ではあり得ないものだ、父に代って、世間を見返してやるというのが、自分の将来の仕事でなければならない、という意味での教育をされて来たのだ。それでも、少年時代は父を軽蔑するまでには至らなかったが、父の存在というものを無視すべきことは教えられていた。
そうしてまた、父の生活ぶりそのものが、ちょうど母の教えるように、自分にはみなされて来ると、そのだらしのないところが目につき、青年時代の初期から、何かにつけて父を軽蔑しだして来たのだ。そうすると、父が時としては烈火の如く憤《いきどお》って、自分を叱責したり、罵倒《ばとう》したりする、それが腕力沙汰にまでなった時、軽蔑が変じて反抗となってしまった。そういう時に、また母が必ず、こちらに加勢してくれた。
父の評判はますます悪くなる、それに反比例して母の人気はよくなる、神尾家は主人はぐうたらだが、奥方がしっかりしているの
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