の、皇帝にお目にかかる時は、わざわざ繻子《しゅす》の日本服を拵《こしら》えて与えられたことだの、日本へ帰ろうというもの四人には羅紗《らしゃ》を一巻、懐中時計を一つずつと、それから金銭を与えられたし、向うに泊っている者六人には、衣服、寝道具を支給され、食事には毎日三度三度、パンと、豚と、魚と、酒を与えられたこと、そんなことの思い出を興味多く語り出でましたが、夜も大分ふけましたから、お松にまたその老人を送り返させて、そうして自分は船長室へ戻って、蝋燭《ろうそく》をともして、光にうつる壁の大地図を引合わせて、今の老人の話した要領の筋道を、ずっと指で線を引いてみました。
三十一
根岸の屋敷で、神尾主膳が日脚の高くなった時分に起きあがり、
「ああ、昨夜もあの女は帰らなかったな」
とつぶやきました。
あの女というのはお絹のことです。お絹は昨夜もこの家へ帰らなかったのです。昨夜もという以上は、帰らないのは昨夜に限ったことではない、このごろは、度々そういうことがあると認められる。事実も、その通りで、つづいて神尾が楊子を使いながら勝手元で横文字のはいった赤い缶入《かんいれ》を横目に見て、吐き出すように、
「あいつ、また異人館か」
それもその通り、このごろのお絹は、異人館へ入りびたりの体《てい》である。
神尾としては、今となってはもう、かくべつ気にもしないらしい。いちいち気にしていた日には際限がないとあきらめているようでもあるし、異人館なるが故に寝泊りを黙許しているだけの、情実でもあるかのようにも見られる。
洗面も食事も済むと、神尾は書斎へ立てこもりました。
いつもは、ここで、閑居しての唯一の善事としての書道を試むるのですが、今日は、筆を選ぶことはあと廻しにして、まず、机に両肱《りょうひじ》をついて、腮《あご》を両掌《りょうて》で受けて、じっと庭前をながめこんだのであります。
庭の八ツ手の下を小鳥が歩いているのを、暫くぼんやりと見つめていたが、今度は、腮を受けていた両掌を外《はず》して、眼と額をおさえてうつむきました。
「さあ、今日からひとつ、著作にとりかかってやろう」
暫くあって、むっくと頭を上げて、硯《すずり》を引寄せ、紙を重ねて文鎮《ぶんちん》を置き、それから硯箱の中から細筆を選んで手に取り上げたのが、いつもとは少し変っています。
いつもならば、こんな細筆を選ぶということはない。細筆をとる時は、何か実用あっての例外の場合のみであって、朝は木軸の大筆に、まずたっぷりと水を含ませることを楽しんでいたのですが、今日は、いきなり細筆を選んで、「ひとつ著作にとりかかる」とかけ声をしたところを見ると、筆の使用も、目途も、従来とは違い、翰墨《かんぼく》を楽しむというのではない、実用向きに使用して、この男がかりにも著作をする気になった動機というものがまた不審ではあるが、すでに今日から着手しようとおくびにも言い出したところを以て見れば、かねがねその下心はあったに相違ない。
神尾主膳は著作をすべからざるものだときめてしまう理由はない。この男が著作をする、それはやっぱり似つかわしからぬところの一つのものではあるが――現に旗本や御家人で、絵師や戯作《げさく》を本業同様にしている者もいくらもある。大名高家でも、立派な随筆を世に残している人もあるのだから、神尾にしても、かりそめにも著作でもしてみようという気になったことは、すでに閑居善事の第二段であるかも知れない。
下へ罫《けい》を入れた紙をあてがい、その上へ半紙を置いて、神尾は、さらさらと文字を綴りはじめました。暫くして、
「女|賢《さか》シウシテ牛売リ損ネル……」
と、二三度、口のうちでつぶやきながら、筆の進行をすすめて思案の体《てい》――
「女賢シウシテ牛売リ損ネル……」
彼は、今、再三それを繰返して、
「はて、この故事来歴の出典は、どこであったかしら」
思案の種はそれでした。
「女賢シウシテ牛売リ損ネル」という俚諺《りげん》は、日頃、耳目に熟していながら、さて、これを紙に書いて、その解釈を附する段になって、神尾がハタと当惑したのであります。
この語の表現する意味は、女というものは、賢いようでも抜かりがある、いや、女の賢いのは、賢いほど仕損じがあるものだ、だから女の賢いのは危ない、女を賢がらせてはいけない――という戒《いまし》めになっているのだが、さて、これが出所はどこか、支那から来たのか、和製か、その故事来歴を知りたい、普通、会話として、常識としてでは、そんな詮議立てをしないでも通るが、著作として世に示すには、そんなことではならない。そこで、神尾が首をひねったのは、それを知るべく、いかなる参考書によったらいいかということの思案でした。
「曲亭の燕石雑志《えんせき
前へ
次へ
全57ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング