膚の色、図抜けて張り切った若い体格、そればっかり頭にあった駒井は、目の前にこのヨボヨボ老人を見せつけられて、やっとそれだけの文句しか出なかったものです。
 しかし尋ねられた老人は、駒井にそんな思惑外れがあろうとは思われないから、抜からぬ顔で、
「はいはい、今年八十六でございます」
「八十六!」
 で、駒井が全く苦笑いを抑えることができませんでしたが、でも、サラリと打解けて、
「そうですか、よくその年で達者に働けますね。そうして、君が世界中を廻って来たというのは、それは幾つくらいの時のことでしたか」
「え」
と言って、もじもじしたのは耳が少し遠いものらしい。八十六では耳の少し遠いくらいは無理はない、と思っていると、お松が代って、大きな声をして、
「おじいさん、あなたが異国を巡ってお歩きになったのは、幾つの時でしたかと殿様がお尋ねになります」
「はあ、わしが流されたのですか、それは寛政五年十一月のことでございましてな」
「寛政五年」
といって、駒井は胸算用《むなざんよう》をしてみますと、寛政五年といえば、今を去ること六十四年の昔になる、その当時は、このお爺さんも二十二歳といった若盛りだが、それにしても古い話だ――
 と、また呆《あき》れましたが、しかし、古いにしても、新しいにしても、経験の教えるところは腐らないものがある。よしよし今晩はひとつ、この老人に就いて聞き得るだけを聞いてみよう。耳は少し遠いようだが、金《かな》ツンボというわけではないから、お松がそばにいてあしらってくれればけっこう話の用には立つ。そこで駒井は、
「お松さん、金椎君は今、例によってお祈りでもしているらしい、それを妨げてはいけないから、あなたひとつ、茶菓の用意をして下さい、今晩ひとつ、このお爺さんから海の話を聞かせてもらいましょう、ゆっくりと」
 お松は心得て、
「承知いたしました」
といって出て行ったが、暫くして茶菓の用意をととのえて持って来ました。
 そこで駒井甚三郎は、老人を相手に、その昔経験した漂流談を、お松と二人がかりで聴き取りにかかります。何しても耳が遠いし、年は寄っているし、記憶ももう散逸している部分も多いし、言葉も大分ちがいますから、もどかしいことはこの上なしですけれども、それでも相当の収穫が与えられないということはありません。少なくともこの老人が、日本人としては最初に世界を一周して来たところの漂流者の中の一人であるということは疑いがありません。
 時は寛政五年十一月、石巻の船頭で、平兵衛、巳之助、清蔵、初三郎、善六郎、市五郎、寒風沢《さぶさわ》の左太夫、銀三郎、民之助、左平、津太夫、小竹浜の茂七郎、吉次郎、石浜の辰蔵、源谷室浜の儀兵衛、太十ら十六人、江戸へ向けての材木と、穀物千百石を積んで石巻を船出したが、途中大風に逢って翌六年二月まで海と島との間を漂流した。ようやく漂いついたところが露西亜《ロシア》領のオンデレケオストロという島。
 その島の島人のなさけでとどまること一年ばかり、穀物は無く、魚類のみを食べていた。
 七年四月三日にまた船に乗って島々を過ぎ、陸地を渡り、エリカウツカというところに着いて、総勢一家を借りてすみ、住民の情けにめぐまれ、或いは日雇となって働いて賃銀を得ること八年、その後モスコーを経て、ロシアの港ビゼリポルガというところで皇帝に謁見《えっけん》を賜わった時分には、一行のうち六人のものはもう死んでいた。
 ここで皇帝から帰るものは帰るべし、とどまろうとするものはとどまるも差支えなしとの仰せによって、四人は帰り、六人はとどまることになった、その帰国四人のうちの一人が、すなわちここにいる老人である。
 かくて文化元年正月、かの地を発船し、マルゲシ、サンベイッケ等を経て、七月の初めカムシカツカに着き、翌月発船して九月長崎に帰る――
 という物語。それを繰返し、引集めて要領をとってみると、まずロシアの地に漂着し、そこで大部分を暮し、それからシベリアを経てウラル山脈を越え、モスコーを経てペテレスブルグに至って、ロシア皇帝に謁見し、公使レサノットに従ってカナシタの港を出て、大西洋を経、アメリカのエカテンナというところへ行き、それから、サンドーイッチ島を過ぎてカムチャツカに入り、長崎に帰るという順路、寛政五年から十三年目で故国へ帰ったという筋道だけは分る。
 右の話のうちにも、地名だの、方角だの、ずいぶん混線したり、聞き馴れないところが多いが、それでも地理の素養の深い駒井には、よく要領を受取ることができました。
 なおくわしくは、明日自分の船長室へ連れて来て、地図についてくわしく問い質《ただ》すことにして、それから余談に移ると、老人は一年ばかりの間、米も粟もなく、魚ばかり食べていたことがあるの、はじめて麦のパンを与えられた時の嬉しさだ
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