いうものは、本にまとまって出るずっと以前に、必ず口頭で伝えられてなければならないはずのもの、現にこの伊蘇保《いそほ》物語などにしてからが、二千年前、ギリシャという国で、イソホという人が著したということになっているけれども、事実はそれよりも千年も前に、同様の話が行われていたということ、イソホはそれらを上手に集め成したのだろう――日本でも、文禄時代に肥前の天草《あまくさ》で翻訳される以前、いずれの国人にも最も耳あたりのよいこの物語が、言い伝えられ、語り伝えられていないというはずはなく、まして、海外交通の最も便宜の多かった山陽道方面の要地を占めていた毛利元就の知識となることは不自然ではない。元就が最期の時に、あれを利用したのは、元就その人の教養と遠慮とを知るに最も適格な話として受け容れられるということなどを説明して聞かせてくれた。そのあと、お松が、
「殿様、こんなに結構な御本ですけれども、ただ一カ所、ほんとうになさけないと思うことがございます」
「それは何です」
「イソホさまが、養子に御教訓なさる言葉のうちに、『妻に心を許すな、平生、意見を加えい、すべて女は弱いによって、悪には入り易《やす》く、善には至り難いぞ』とあるのと、それから、『大事を妻に洩《もら》すな、おんなは知恵浅く、無遠慮なるによって、他に洩して仇となるぞ』とありますが、仏様のお教えにも女は成仏《じょうぶつ》ができない、孔子様も女子と小人など仰せられまして、女をたのみ難いものになさるのは、東洋の国々ばっかりかと思いましたら、この御本のように、西洋でもやはり女は浅ましいものとなっておりますのが、真実のこととは申しながら、なさけない思いがいたします」
「うむ、全部がそうというわけでもなかろうが――」
と言って、駒井は肯定するような、しないような返事をしました。あさましい女もあれば、たとえばお松さんのような、立派な強い素質を持った女性もある――とでも言えば言いたかったのでしょうが、そうも言わないでいると、お松が、
「それから殿様、わたくしは申し上げに出ようと思っていたところでございますが、ただいま船の修理に来ておいでなさる人たちの中に、珍しい人が一人おりますのでございます」
「それは、どういう人ですか」
「この近辺の人ですが、日本でははじめて、この世界中を一巡りして来た人の仲間のうちの一人だそうでございます、世界の国々を経巡《へめぐ》って来たことに於ては、あのマドロスさんなんぞより、遥かに世間が広いらしうございます」
「ははア、それは耳寄りな話だ」
と言って、駒井甚三郎はわれながらはずむほどに身を乗出したというのは、今もいままで思いなやんでいた当座の問題――かけがえのない船の苦労人《くろうと》、思案の果てが、いつもあの不埒《ふらち》千万なマドロスの上に落ちて来るのが苦々しい限り。ところがこのマドロスに上越すところの海の苦労人《くろうと》が、現在自分の身近くにいる! という報告を、別人ならぬお松が聞かせてくれたのだから、駒井が夢かと驚喜の色を浮ばせるのも無理はありません。
「そういう人がいるなら、早速会ってみたい、どこにいます」
「お船の船頭部屋に泊り込んで、毎日、修繕仕事を手伝わせていただいております」
「今晩もいますか」
「はい、宵のうちは乳母《ばあや》さんのお部屋へ、皆さんとよくお話しに出かけます」
「では、直ぐにここへ呼んでもらえまいか」
「今晩お会い下さいますか」
「早い方がよい、今すぐにここへ呼んで来て下さい、ここでひとつ、会いましょう」
「では行ってまいります」
 お松があたふたと出て行ったその後で、駒井甚三郎は、なんだか胸が躍るように思いました。が、また思い返してみると、それはあんまりお誂向《あつらえむ》き過ぎる、そういう思いがけない人間が、この際、ひょっこりとここへ現われるなどは夢のようなものだ。もとより本当のマドロス修業をした人間ではない、海へ出た魚師かなにかが災難で漂流して、世界中を吹き廻されて来たというものだろうが、なんにしても遠洋航海の実地経験さえ持ち合わせている人ならば充分だ、早くその人を見てみたい、そうしたならば明日からでもマドロスの補欠として雇い、大工から引抜いて、天晴《あっぱ》れ一方の仕事を任せてみたい。
 こう気構えしていると、やがてお松が手を曳《ひ》いて、当人をここへ連れて来ました。

         三十

 待ち焦《こが》るるほどの目の前へ、当人を連れて来られて見ると、再び駒井甚三郎が、一時は拍子抜けのするほど呆気《あっけ》に取られてしまい、
「ははア、君はいったい幾つなのですか」
と、とりあえず年を尋ねることが先になってしまったことほど、この当人は年寄中のヨボヨボでありました。遠洋航海ということから、マドロスの海風に吹き鍛えられた皮
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