に立ち出でた駒井甚三郎は、次に、事務長室のところまで来て、また歩みを止めてコトコトと扉を打ちますと、こんどは明瞭な返事がありました。
「どなた?」
「駒井です」
「おお船長さま」
中にいたのはお松です。お松は事務長室の卓子《テーブル》の上で、今まで一心に本を読んでいたことがよくわかります。
「何ですか、この本は」
「この間、殿様からかしていただいた御本でございます」
「おお、伊蘇保《いそほ》物語、どうです、面白いですか」
「まことに結構な御本でございます、今までこんなおもしろい、為めになる御本を読んだことがございません。あんまり結構でございますから、つい、登様の御機嫌を伺いに行くのも忘れて、今まで夢中に拝見いたしたところでございます」
「そうでしょう、それはたしかに面白くてためになる本、わしも感心して読みました」
「もとは西洋の御本だそうでございますから、わたしはまた金椎さんの大事にしておいでなさる、西洋のお寺のお経の御本かと思いましたら、そうではございませんでした」
「中身はお伽噺《とぎばなし》のようなものだが、このお伽噺は大人君子《たいじんくんし》も深く味わわなければならないお伽噺だ」
「ほんとうに左様でございます、噛《か》みしめればしめるほど、幾つになっても、どんな偉いお方でも、お手本になるお伽噺だと存じます、全くこんな為めになる御本はほかにはございません」
「それに元は西洋の本でも、翻訳がなかなか名文だから、いっそう読み心地がよい。どこまで読みました」
「はい、ここまで拝見しましたが」
と言ってお松は、雁皮紙刷《がんぴしず》りの一種異様な古版本のある頁を開いて、駒井の方へ示しました。
「ははア――」
と駒井が、それに眼を落したところに、次の如き文字が見える。
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「狼と子を持った女のこと」
[#ここで字下げ終わり]
「それから殿様、この少し前のところに、私としても、少し不審なことがございます」
と言って、お松は、十枚ばかり後ろへ紙数を繰り返したところの書物の上を指すと、そこには、
[#ここから1字下げ]
「父と子どものこと」
[#ここで字下げ終わり]
駒井が示されたまま黙読すると、次のように書いてある。
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「ある父、子を大勢もったが、その子供の仲が不和で、ややもすれば喧嘩口論をして犇《ひし》めくによって、その父、なにとぞしてこれらが仲を一味させたいといろいろ工《たく》めども、為《しょ》うずるようもなかったが、あるとき児ども一処《いっしょ》に集まりいたとき、父|下人《げにん》を召《よ》うで、『樹の楚《いばら》をあまた束《たば》ねて持ってこい』というて、その束《つかね》を執って、数多《あまた》を一つにして縄をもって思うさま堅う巻きたてて子どもに渡いて『これを折れ』という、児共われもわれもと力を尽して折ってみれども、すこしも叶わなんだ、そのとき父堅く巻きたてしをほどき、一把《いちわ》ずつ面々に渡いたれば、造作もなく折った、それをみて父のいうは、『めんめんもそのごとく、一人《いちにん》ずつの力は弱くとも、たがいにじゅっこんし、志を合わするにおいては、なにとした敵にも左右《そう》無うとり拉《ひし》がるることあるまじいぞ……』と言い終った。
下心《したごころ》
互いの一味をもって人間の仲も強く、また不和なときは国家も滅びやすいという義じゃ」
[#ここで字下げ終わり]
駒井甚三郎がこの条《くだり》を読み了《おわ》ると、お松が、
「このお話はどうも、わたくしが子供の時に聞いた毛利元就《もうりもとなり》公のお話と、あんまりよく似過ぎておりますから、ことによると元就公のお話を、こんなふうに書き改めたのではないかとも思われるのでございますが」
駒井がそれを聞いて、頷《うなず》いて、
「なるほど、そう思われるのも決して無理はないが、事実はそうではないのだ。いったい、この伊蘇保の物語というのは、今から二千年も前に出来た本なのだから、毛利元就の時代より遥かに遠い。だから疑えば毛利元就のあの三人の子供に弓の矢を折らせたという物語は、かえってこの物語から出たつくり話ではないかと疑うのが当然なのである。しかし、もう少し同情した考えようによると、日本でこの本がはじめて翻訳されたのは文禄三年ということだが、それ以前に日本へ来た宣教師や外人によって、なんらかたとえ話となって日本人の口に膾炙《かいしゃ》していたかも知れない、それを元就が聞き知っていて、自分の最期《さいご》の遺言に利用したものと見られないこともあるまい」
「そういう順序でございましょうか。なんにしても大へん結構なお話で、偉い父親ならば、きっと利用しそうなお話でございます」
それから、駒井は、そう解釈するのが親切であって、たとえ話などと
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