その時に、船室の一方から唄が流れ出して来ました。
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ネン、ネン、ネン
ネン、ネン、ネンヨ
ネンネのお守はどこへいた
南条おさだへ魚《とと》買いに
チーカロンドン
パツカロンドン
ツアン
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「茂だな、茂太郎歌い出したな、珍妙な子守唄を」
と甚三郎が思い出していると、キャッキャッと言ってよろこぶ男の子の声が続いてしました。これは申すまでもなく登。
 そうするとまた、茂太郎の声で、
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ちょうち、ちょうち、ばア
ちょうち、ちょうち、ばア
うつむてんてん、ばア
かいぐり、かいぐり、ばア
ととのめ、ととのめ、ばア
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 その度毎にキャッキャッとよろこび笑う登、登を笑わせていよいよはしゃぐ茂太郎。こんどはどうしたのか、登がワーッと泣き出す。
「そら、茂ちゃん、だからいけません、あんまりしつっこいから、とうとうお泣かせ申してしまいました」
と叱るのはばあやの声。
「いいよ、いいよ、お泣かせ申したって、また、あたいが笑わせてあげるから、いいじゃないか。さあ、登さん、ごらん、あたいが踊ってあげるから、ばア」
 それは茂太郎の声。登も御機嫌がなおったと見えて泣きやんでいると、茂太郎の声色《こわいろ》めかした気取った声で、
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うんとことっちゃん
やっとこな
そうれつらつらおもんみれば……
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 そこで、登といわず、ばあやといわず、一同がやんやと喝采《かっさい》したその声を聞くと、船頭もいれば、大工も交っているらしい。やんやとうけさせた御当人を想像すると、これはどうやら団十郎をやっているものらしい。目口をかわかし、台詞《せりふ》をめりはらせて、大気取りに気取ったところが目に見えるようです。駒井もそれを聞くと、ほほえまれずにはおられず、なんとなく陽気な気分になるのです。
 そこで駒井も、自分もひとつその船室へ入り込んで見ようという気にまでなったが、かえって一同を驚かせて、せっかくの興を殺《そ》いではいけない――と、その前を音立てず素通りをしてしまいました。

         二十九

 それから駒井甚三郎は、歩廊の間を歩いて、コック部屋のところへ来ると、ここで金椎《キンツイ》君を見舞ってやりたい気になりました。それは今の団欒《だんらん》の中に、金椎とお松だけが加わっていないらしいから、駒井はここへ来て、扉をコツコツと叩いたが、叩いても叩きばえのする金椎でないことに気がつくと、そのまま扉をあけ放しました。
 普通ならば、どちらからか言葉をかけなければならないのですが、ここではそうする必要もなく、開けて見ると室の真中に蝋燭《ろうそく》が一本かすかに光っているその前で、ひとりひれ伏している金椎を見ました。
 駒井が入って来たのに驚きもしないのは、それは、全然気がつかないであちら向きにつっぷしているからであります。といっても、そこで熟睡に落ちているわけでも、居眠りをしているわけでもありませんでした。金椎は卓子《テーブル》を前にして、何かしら厳《おごそ》かな唸《うな》りを立てている。しかし、その唸りは病苦に悩んでの唸りではない。
 その光景を見ると、駒井は何か知らん厳粛沈痛なるものの気分に打たれて、突立ってしまいました。駒井は、金椎がこうして密室の中に、ひとり深い唸りを立てている光景を見たのは、今宵にはじまったことではないのです。駒井がどうかして不意に金椎の室内を訪れた時、こういった光景を見て、最初は病気に苦しんでいるのだと思いましたが、後にはそうでないことを知りました。
 つまり、この聾少年《ろうしょうねん》はこうして「おいのり」をしているのです。駒井には信じきれない、目に見きれない神様というものに対して、この少年はこうして「おいのり」を捧げているのだ、ということを知ると共に、駒井はそれを軽んぜられない心になりました。これを妨げてはいけないという心になって、ある時はそのまま立去り、ある時は、その「おいのり」の済むまで自分も儼然としてそのところに立ち尽すのを例としました。
 今もまたその通りです――しかし、駒井甚三郎がこうしてその少年の祈りを見ているが、今宵の少年の祈りは、いよいよ厳粛に、深刻に進み行くかのように、腸《はらわた》へしみるような深い唸《うな》りが連続的に続いて行く。単にその唸りだけが、駒井の心を、なんとも言えない厳かな、沈痛なものに導き入れるのです。駒井はついにその重圧に堪えられないで、この少年の祈りの終るのを待たずに、またそっとこの室を出てしまいました。
 祈りの聾少年は、船長の入って来たことも知らず、立去ったことも知らなかったでしょう。そしてこの分では、何か夜もすがらの祈りが続くかもしれない。
 そこを忍びやか
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