本来、ふやけた奴等ではあるが、それにしても水びたりになって隠れているのにも及ぶまいに、どこまでも変っている、どうするか見遁すことではないぞ」
と、見ているうちに、二つの影は相《あい》擁《よう》して、その蘆荻の中へ没入してしまいました。
「ちぇッ、やっぱりあの水の中の蘆荻の蔭で二人がうじゃじゃけている、しようももようもない奴等だ」
白雲は、二人の没入した蘆荻の中を、苦笑いしながらなお眼鏡を外《はず》さないで見ていると、やがてその間から、すうっと一隻《いっせき》の小舟が漕ぎ出されたのを見て、
「ははア、よしきりじゃあるまいし、水の中にうじゃじゃけていたというわけでもない、奴等、舟をあの蔭につないで隠れていたのだな。そうして兵部の娘だけが舟に残っていて、ウスノロが食料品徴発と出かけたものなんだ。そうして、多少の食料にありついたから、これから河岸《かし》を変えようというのだ。あれを下流へ行けば飯野川の宿になり、それから、ずんずん下れば追波湾《おっぱわん》へ出るのだ、今では石巻方面よりも、あちらの流れが北上川の本流と言いたいくらいだ。さあ、しかし、こう認めた以上は、あいつらをこうして遠方からいい気でさげすんでばかりいてはならない、あれを追いかけなければならない、追っかけて手捕りにしなければならぬ使命と責任とを負う身だ――もう一ぺん、あの野郎を相手にロケーションを繰返さなければならない、今度は船頭共とは相手が違う、追いついた以上はこっちのものだが――追い過して海へでも追い出してしまってはならぬ」
というようなことが気懸りになると、白雲も実際、対岸の火事の如く、対岸の駈落者を興味半分だけで見ているわけにはゆかないことに胸をうちました。
二十八
田山白雲が船を出て行った夕べ、駒井甚三郎は、ひとり静かに船室に落着くと、「人が出て行った」という感傷に堪えられない。
白雲が出て行ったのは戻るために出て行ったのである。七兵衛が帰って来ないのは帰りたくてたまらないのが帰れない事情に妨げられているということを、駒井はよく知っている。それだのに、人が去って行くという淋しい気持を、如何《いかん》ともすることができません。
マドロスと兵部の娘に至っては論外であるけれども、それですら、離れて出て行ってしまった人間には相違ない。彼等の放縦と、我儘《わがまま》と、不謹慎とで背《そむ》いて去ったのだから、こちらに責任が無いと言えば言うものの、自分の周囲に人を引きつける徳がなく、人を容れるの量がないのかということを想像してみると、駒井といえども、いとど心淋しさを催さずにはおられないのでしょう。
古来英雄というものには、みな人を引きつける一つの力を備えている。憎まれながらも、恐れられながらも、人がそれについて行く。人がそれから離れられないという力があるものだ。然《しか》るに自分は――英雄であるとはうぬぼれていないが、自分に附く人よりも、自分から離れる人の方が多く、自分のよしと信ずる理想が、人から喜ばれるよりも、人から斥《しりぞ》けられるものばかりが多いように思われてならない。第一、自分の妻が、もう最初から自分を離れている。お君が離れた。従ってあの米友という礼儀はわきまえないが、心実の確かな小男も、自分を離れたというよりは、むしろ怨《うら》んで去った。神尾主膳の陥穽《かんせい》にかかって、自分は半生を葬られてしまったようだが、実はやっぱり自分は、その地位を保つだけの徳がなく、職を辷《すべ》るだけの欠陥があったせいだと見られないこともない――駒井はこんなことを考えながら、やがてひとり船室を立ち出で、甲板の上を静かに歩み出でました。
外へ出て見ると、月ノ浦の夜に月はありませんでしたけれども、至って静かなものです。遠く松島湾の方のいさり火を眺めて、駒井甚三郎は満面に触るる夜気を快しとしました。
船の修繕と、未完成の部分の工事、この地で大工に心あるものを雇いは雇ったが、どうも思うようにこちらの壺を呑込んでくれなくて困る。人手に不足はなく、みんなよく働くけれども、本来、こういう船の工事を扱う手心が出来ていないのだから仕方がない。明日はまたひとつ鍛冶屋を探し求めなければならない。機関部の工事を補足をするために、この辺から鍛冶屋を求め出して来なければならない。それはあるだろう、本当の鍛冶屋は探せば出てくるに相違ないが、それを生《なま》では使えない、一応|陶冶《とうや》教育を加えてから、傍についていて指導して使わなければならない。その手数がどうも容易のものではないが、それは致し方ない、と駒井が、そのことを思い及ぼすと、どうもあの不所存者のことが気になる。
「あのマドロスの奴がいれば、こういう時には全く役に立つ」
やっぱり未練のような思いが残るらしい。
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