ら、この世の名残《なご》りとしゃれるようなしゃばっけも持ち合わせてはいない。ただ盲目的に着のみ着のままで飛び出して来たのだから、行当りばったり、行詰るにきまっている。行詰った時、最初の要求は、彼等にとっては死でなくして食である。少なくとも、ウスノロの奴め、雪時の熊のように、どこかへ食物をあさりに出るに相違ない。食物を人里へあさりに出たが最後、眼の色、毛の色の変った珍客――昔二ツ眼のある人物が、見世物の材料を生捕るために一ツ眼の人の島へ押渡ったところ、反対に二ツ眼のある人間が来たから取っつかまえて見世物にしてやれ、と言ってつかまってしまったというのと同じ運命に落つるにきまっている。白雲が最初、七兵衛おやじの影を捕えるのはかなり難儀であろうが、ウスノロの方は存外|手間暇《てまひま》がかかるまいと安く見ていたのが的中しました。彼は今、飢えに迫ってあの船頭小屋の中へ何か食物を漁《あさ》りに来たのだ。そして船頭親子に見つかってあの醜体だ。白雲は自分の想像の図星を行っているウスノロめの行動が、むしろおかしくなって吹き出したいくらいに感じたが、しかし、彼処《かしこ》で争っている三人の御当人たちの身になってみれば必死の格闘である。ことに気の毒なのは、この一種異様な侵入者を、ここまで追跡して来て、せっかく取抑えたかと思えば、かえって逆襲されて、一歩あやまると、自分たちの生命問題になる立場に変って、狼狽《ろうばい》しつつ、後退しつつ、必死に争っている体を見ると、白雲は気の毒でたまりません。
 白雲以外の舟を待つ人々は、事の内情も、目色、毛色も一切わからないから、どちらへどう同情していいかわからないけれども、どちらにしても、あの格闘の幕が終るまでは、われわれは舟に乗れないのだと、半ばヤケ気味に諦《あきら》めつつ、なお八分の興味をもって右のロケーションを眺めておりました。
 そのうちに、突きまくられ、追いまくられた船頭親子は、無残にも足を踏みすべらして、重なり合うように北上川の川の淵の中へ落ち込んでしまいました。
「アッ」
と、こちらの岸で見ていた一同が声をあげて、この無残な船頭親子のドン詰りに同情の叫びを挙げましたけれども、この不幸が、実はかえって力の弱い船頭親子には幸いでありました。というのは、力限り陸上で格闘を続けていた日には際限がない、際限がありとすれば、暴力に於て格段の差ある親子は、あの巨大な暴漢のために、徹底的に、致命的に叩き伏せられて、再び立つことができないようにまでさせられてしまうにきまっている。それが川という別管区域へ落ち込んでしまったために、相手はちょっと追窮の機会を失ったのだから、この二人の親子が水練を心得ている限り――船頭のことだから、むろんそのたしなみはあるに相違ない――また、何か水中に人を刺すような木石の類が存在していない限り、致命的の怪我からはまず遁《のが》れられるものと見なければならない。
 果して、追究された船頭親子が水中に落ち込んだのを機会に、むしろそれは落ち込んだというよりは、こちらが叩き込んだと見るのが至当な攻勢であったけれども、そこまで来ると、もうこれ以上働くことよりも、逃げることの急なのが自分の立場であるということにでも気のついた如く、倉皇《そうこう》と取って返し、最初倒れた際に、そこにおっぽり出した包みもの、それは、その中のものは白雲の遠眼鏡を以てすれば、当然なにか船頭小屋の中に有合わせた、当座の食料品であらねばならぬところのものを取り上げるや、それを拾って、不器用な駈けっぷりで、こけつまろびつ川下の方へにげて行くのであります。
「やれやれ、これでどうやら一巻の終りになったが、かわいそうに、たたき込まれてお陀仏《だぶつ》になったらしい船頭親子――」
と言って、待ちくたびらかされたこちらの旅人たちも、改めて同情の眼を以て見る瞬間に、早くも船頭親子は、落ち込んだところから十間ばかり上流へポカリと浮き出して、二人とも河原に立って、着物を絞りながら馬鹿な面《つら》をして、逃げて行く大男の後姿を見送っている。
 やれやれ、これでまあ、こっちも助かった、船頭親子も怪我がない限り、おっつけ舟も廻って来るだろう、と旅人どもは、市《いち》が栄えたような心持で、げんなりしたが、白雲ひとりだけの興味は、決してそれで尽きたのではありません。更に一層の興味をこめて遠眼鏡の筒を、逃げて行くウスノロ氏の後ろへ向けました。
 こけつまろびつ走りつづけたウスノロが、ほどなく蘆荻《ろてき》の生いしげったようなところへ来ると、その蔭からパッと飛び出して、いきなり抱きつくようにウスノロ氏を迎えたものがあります。
「あれだ!」
 白雲は、その者が兵部の娘もゆる嬢であることを直ちに認めました。
「ははあ、あいつら、こんなところに巣をくっていたのか、
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