その手重いところが、また、旅情の一つと嬉しくも思いました。
 そこで、枕について、それとなく立て廻された六枚屏風を見ると、それは月並のつく芋山水《いもさんすい》を描いたものでなく、いろいろの文字を寄せ書してある様子が異っているから、また少し枕の向きをかえて見直すと、一目でわかる旅姿の芭蕉《ばしょう》の像を描いて、その上に文章が記してある。
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「終《つひ》に道ふみたがへて、石の巻といふ湊《みなと》に出づ。こがね花咲くと詠みて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船、入江につどひ、人家地をあらそひて、竈《かまど》の煙たちつづけたり。思ひかけずかかる所にも来《きた》れるかなと、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明す」
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 これを読んで田山白雲が、ははあ、「奥の細道」だな、「奥の細道」も、松島や平泉のところの名文は空《そら》に覚えているが、こんなところはあまり気がつかなかった。宿からんとすれど、更に宿かす人なし――か。なるほど、芭蕉翁の如き名人でもこれだな、我々が、こうして田舎《いなか》廻りをしていながらも、とにかく、宿かす人はある。一とせ文晁《ぶんちょう》は、松平楽翁公につれられて仙台へのり込んだそうだが、豪勢な羽ぶりであったそうだ。当節は絵師といえども、名声を得ればお大名だが、昔は芭蕉ほどの大家聖人でも、我々に劣った旅をしたものだ。しかしそういう貧しい旅のうちに、人間の真相というものが本当に掴めるのだ、人生の深奥《しんおう》というものに、かえって触れることができるのだ、有難いものだ。
 白雲はガラになく、しんみりと、こんなことを思いやって六枚屏風をながめているが、この六枚屏風には単にこれだけのことを記してあるのではない、なお、盛んに、あとからあとからとつぎ足しらしい筆蹟が続いているのである。
 次のは片仮名文字入りで、
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「潮流ト河流トノ関係デ、北上ノ河口ガ土砂デ塞ガツタ、北上ノ無尽蔵ナ水利ガ殆ンド無用ノ長物ニナツタ、石巻ノ衰ヘタ原因ハ如何《いか》ニモ明白デアル、水ニ鮭《さけ》、鮪《まぐろ》ガアル、陸ニ石、糸ガアル、長十郎梨ガアル、雄勝ノ硯石《すずりいし》モアル、渡ノ波ノ塩ハ昔カラ名高イ物デアル、アタリノ禿山《はげやま》ニ木ヲ植ヱ、荒蕪《くわうぶ》ノ地ヲ開墾スルナド興スベキ産業ハ天然ノ景色ト相俟《あひま》ツテ有志ノ志ヲ待チツツアル、牡鹿唯一ノ都ハ無意味ニ廃頽《はいたい》ニ帰スベキデハナイ、石巻恢復ノ策三ツアル」
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と、版下でも書くようにかっきりと書いて、その下に「平五郎」と銘を打ってあるのは、つまり平五郎という人の石巻観を率直に述べたものらしい。その次に「野老庵小集」とあって、
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風呂吹に酒一斗ある夜の会 木犀
風呂吹や尊き親に皿の味噌 其北
風呂吹を食へば蕎麦湯《そばゆ》をすすめ鳧《けり》 陽山
風呂吹の賛宏大になりにけり 平五郎
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 ここで句会を催した逸興であるらしいが、その次に、六朝風《りくちょうふう》の筆で、
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芒鞋布韈路三千(芒鞋布韈《ばうあいふべつ》路三千)
追逐看山臨水縁(追逐《おひおひ》に山を看《み》、水縁に臨む)
唱出俳壇新韵鐸(俳壇に唱へ出す新韵《しんゐん》の鐸《たく》)
声々喚起百年眠(声々に喚起す百年の眠り)
身在閑中不識閑(身は閑中に在つて閑を識らず)
朝躋鶴巓夕雲開(朝《あした》に鶴巓《かくてん》を躋《こ》え夕《ゆふべ》に雲開く)
瓠壺之腹縦摸筆(瓠壺《ここ》の腹に縦《ほしいまま》に筆を摸《さぐ》り)
収拾五十四郡山(収拾す五十四郡の山)
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 打見たところでは一律のようになっているが、二絶句である。この詩と句とによって考えると、平五郎という俳諧師《はいかいし》が、遥々《はるばる》ここへ旅に来て、同好の士がこれを迎えた。平五郎という人は近世の俳人で、そうして、これによって見ると、都から遥々旅をして来た人だ。路三千とある。山河遍歴に於ては芭蕉に勝るとも劣らない人と見える。そこで白雲も、身に引比べて何かしらこの六枚屏風の余白に一つ書いてやりたい気になって、御苦労千万にも、一旦ついた枕をあげて、帯を締め直し、行燈《あんどん》をかき立て、筆墨の行李《こうり》を開きにかかりました。
 白雲は屏風の余白へ何か書いてみたい気になりましたが、さて、お手前ものの絵を描く気になれませんでした。
 何か字を書きたい、といったところで、その文字も咄嗟《とっさ》に平仄《ひょうそく》を合わせて詩を作るの余裕もなく、また、あまり自信もない和歌や俳句の速成をのたくらせて、この道の泰斗名家のあとを汚すほどの向う見ずもやりたくな
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