渉がなければならないのだが、何もない。従ってこちらへ累《るい》が及んで来ない。そこはどうしても彼の好意でもあり、苦心の存するところと思うから、それをこちらから進んで明白にしてしまったんでは、彼の好意と苦心を無にした上、おたがいの迷惑と犠牲を大きくするようにならんとも限らぬ。もう少し考えた上で、おたがいの安全を期しつつ、彼を無事にこの船中へ取納める方法を講ずるがよかろうではないか」
「なるほど、そのへんもありましょうな。窮迫しても彼が、駒井氏や無名丸を肩に着ようとしないし、直接にここへ目指して逃げて来ようとしないところに、彼の思慮は充分見えるようです。では公然のもらい下げ運動は見合わせるとして……」
 その次の方法でありました。そこへお松が意見を述べたのは、
「わたし一人で出かけてはいかがでしょう、わたしならば人様も疑いますまいから、巡礼の姿にでもなって、そうしてムクを連れて行けば、きっと探し当てられると思います。わたしをやっていただきましょう」
「いや、それはいけまい、言語風俗の違う若い娘が巡礼姿にやつすとはいえ、たった一人で、その辺をうろつくなんぞということが、かえって人の眼につき易《やす》い。それにムクは、また目立ち過ぎる」
 評議半ばのところへ、扉をやや手荒く外からおとなう者があります。
「誰だ」
 扉を開いて、板張にかしこまっている男。
「船頭でございます」
「何か用か」
「あのムクが帰りましたそうでございますが、どうか、さきほどお願《ねげ》え申した通り、ムクをお借り申してえんでございます」
「うむ……」
と駒井が、急に返答をしないでいると、白雲が船頭に向って言いました、
「ムクを借りてどうしようというんだ」
「はい、ムクをお借り申しまして、マドロスの奴を追いかけてみてえと思って、殿様にさきほどお願え申してみたでございます。マドロスの野郎、思えば思うほど胸の悪くなる畜生だ、殿様の御恩も忘れやがって、わしどもを踏みつけにしやがって、どうしても腹が癒《い》えねえから、ひとつ、ムクが帰ったらば、ムクをお借り申して、あいつのあとを追いかけて、とっ捕まえて、思うさまひとつ懲《こら》しめてやらねえことにゃ……」
 船頭は、余憤堪え難き風情《ふぜい》で、駒井へ直訴《じきそ》に来たものらしい。
 ところが駒井は、いいとも悪いとも言いません。
 つまり、うむ、では、直ぐに出かけてつかまえて来いとも言わないし、あんな奴は問題にするなとも言わないのは、駒井としてそこに若干の苦衷《くちゅう》が存するものらしいことを、田山白雲も最初から感じていました。あのウスノロのマドロスめ、言語道断《ごんごどうだん》の奴ではあるが、船長としての駒井甚三郎が、その言語道断の奴を一刀両断にも為《な》し難い――というのは、駒井甚三郎はその秀抜[#「秀抜」は底本では「秀技」]な頭脳を以て、最近の学術と、経験と、応用とを以て、一艘《いっそう》の船を独創したことは事実であるが、それを首尾よく運送して、初航海を無事にここまで安着せしめた成功の大半は、この放縦無頼《ほうじゅうぶらい》のウスノロのマドロスの力に負うところが無いとは言えない状態なのだ。学問は無く、品性は下劣であるにしても、その世界中を渡り歩いて、海を庭とし、船を家としていた生活から生れた体験は、駒井が、書物や、学理や、少々の実験からではどうしても得られないものを、こいつが豊富に持っていました。それは今度の初航海に充分に証明されたところであり、本人が、こっちにとってそれほど貴重な経験を、マドロスとしてあたりまえの働きとして、鼻にかけるところまでは行ってなかったらしいが、駒井にとって、天の助けとも、渡りに船とも、なんとも有難い唯一無二の羅針となったものです。この男がいなかろうものなら、船は、難破せしめるほどのことはないにしても、ここまでの無事廻航はまず覚束《おぼつか》ない。或いは途中、不意にどこかへ寄港して、腹帯を締め直す必要はたしかに存していたと見なければならぬ。同時に、不意の寄港がもたらすところの不便や、誤解や、さまざまの障碍を想像すると、マドロスにあっては尋常茶飯《じんじょうさはん》の労務が、駒井には無くてならぬ依頼――船中の誰よりも、むしろ船の次には、その男が必要と認めないではいられなかったと思われる。
 自然、今後の航海、その針路としてはまだ確定はしていないが、それは当然房州から仙台まで廻航して来た以上の難航が予想される。その際に於てのあのマドロスの必要は、全くかけがえのない絶対的のものである。伊豆系統の熟練な船頭はいるけれども、それは仕事の性質と経験が違う。そう思って見ると、許し難き放蕩《ほうとう》も許し、度し難き不埒《ふらち》も見て見ぬふりをしておらねばならなかった駒井甚三郎の苦衷というものが、白雲に
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