う者もある、みすみす冤罪《えんざい》で陥れられるものもあるのだから――そう絶望するがものはない。ひとつ拙者が本当のところを突きとめてみて、いよいよ捕まったとなればかえってまた方法もある、駒井殿と相談して貰い下げることも容易《たやす》いと思うから、そんなに気を落しなさるなよ」
 白雲はこう言ってお松をなぐさめて、その翌日、塩釜から仙台へかけて、昨夜の捕物の顛末《てんまつ》を聞きただし、さぐりを入れて歩いてみると、岩切というところで、一つの異聞をしっかりと聞きとめました。
 ここの立場《たてば》で――ほんのたった今、大変が起ったというので、火の見の下の茶屋で、土地の人が目の色を変えつつ、よってたかっているあたりの形勢の狼藉《ろうぜき》なのを見て、白雲はなんとなく胸を突くものがあるものですから、尋ねてみると、いよいよ聞き馴れない奥州語を、半ばは語勢で判じてみると、白雲が来たほとんど一刻前《ひとときまえ》、ここで大活劇が行われた――というのは、松島から連れて来た重大な犯人が、ここで駕籠《かご》を破って逃げてしまったところだというのです。
 それだ! 更に突っこんでその点を厳しく尋ねてみると、いよいよそれに相違ない。駕籠脇について来たのは仙台名代の親分で仏兵助という者――ここで一行が暫く休んでいるうちに、兵助親分が、「おとっさん、あの駕籠の中へ、温《あった》けえうどんを一ぺえ、くれてやってくんな」というような情けを見せたのが仇となったようです。
 うどんを一杯、駕籠のところまで持って行ってやると、そのうどんを食べるには、どうしても小手をゆるめてやらなければなりません。
 兵助親分にしてみれば、なあに、俺がついている――いいようにしてやれというはらがあったので、うどんを口へ運ぶだけの手のゆとりを許したものらしい。
 そうすると、非常に有難がって、旨《うま》そうにそのうどんを食べてしまったが――食べてしまうと丼《どんぶり》の中に、どうして入れたか小判が二枚あったそうです。
 誰が丼の中の二枚の小判を最初に認めたか、それはわからなかったが、とにかく、非常に神妙に、丁寧に、一椀のうどんにお礼を言ってしまってから、あとの願いがまことに申し兼ねたことですが、用便がいたしたいということでした。
 それは兵助親分の同意を得たわけではないが、誰か近くにいた目明《めあか》しのお目こぼしで、駕籠から出して、無論、厳重な附添の下に雪隠《せっちん》へ案内をしたのが運の尽きでした。
 あんまり静かな時が長く続くものですから、兵助親分が急に気になって、「長いじゃねえか」と言った時は、もう遅かったのです。あの田圃《たんぼ》の向うを走る犯人の姿が、ありありと誰の目にも見えました。
「それ!」というので追いかけたが、先方の妙に早いこと、早いこと、まるで鉄砲玉が飛ぶようで、稲田の蔭に没入した後は、どっちの方面から、どう探しても、行方きえ判断することもできなくて、この始末。つまり、完全に罪人を取逃してしまったということになるのです。
「なに、丼の中の二枚の小判ですか、それは、どなたも受取りゃしません、丼と一緒に、さきほどまでこの店先に抛《ほう》り出されてございました」
 それだけ聞くと、白雲は、
「そうか」
と言って、棒のように身を立て直すと、そのまま、すっくすっくともと来た松島の方へ歩み去るのであります。

         二十三

 右の要領をつきとめた田山白雲は、もうこれで、七兵衛の安否そのものだけは充分だと思ったのでしょう、岩切から真直ぐに仙台へ帰ると、お松にも、その旨を言い含めたのでしょう。それから即刻、宿を引払い、自分が主になって、お松、茂太郎、ムクを引具して、小舟で月ノ浦へ帰ってしまいました。
 無名丸に着いて、改めてこの報告と、善後策について会議を開いてみると、駒井甚三郎もここに、七兵衛というものが、自分が想像していた以上の曲者《くせもの》ではないかと考え、何かほかに重大なる黒い影を持つ男ではないかと、胸に迫るものがありました。
 しかし、田山白雲は事柄を、もう少し単純に考えて言いました、
「どうでしょう、あの男は、何か重大な嫌疑をかけられて、尋常では解くに由なき立場にいるらしいから、いっそ駒井氏の知辺《しるべ》をもって、藩の上の方へ貰い下げ運動を試み、我々の一族で、決して怪しいものでないという証明の下に、直接《じか》に当ってみては」
 白雲がそう言ったけれど、駒井は立ちどころには同意しませんでした。
「それで事が解決するならば、いつでももらい下げ運動は試むるが、どうも拙者の見るところによると、あの男は、何か相当の思慮があって、我々との関係を秘して、我々の迷惑にならぬようにと苦心しているのではないか。そうでなければ捕方が彼を探索するために、当然まずこちらへ交
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